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シン組織論

はじめに


 宗教改革者ジャン・カルヴァンは,たくさんの著作を残しました。有名な「キリスト教綱要」や膨大な聖書注解など。それらの文献を精査した結果,ルターとの大きな違いに気づきました。それは,「ルターは福音を重視したが,カルヴァンは福音における律法を重視した」という事実です。つまり,プロテスタント主義の闘士カルヴァンは,「イエスの福音から見た律法の重要性」を強調しているのです。なぜカルヴァンは,律法を重視したのでしょうか?答えは,「秩序の構築」です。カルヴァンは,社会的秩序の形成に律法が欠かせないことを喝破していたのです。そして,カルヴァンの思想を実現するかのように,カルヴァン主義の国々から,多くの強国が誕生しました。オランダ然り,イギリス然り,アメリカ然り。
 しかし,私は思います。カルヴァンの組織論は,「自由なき服従」であると。カルヴァンはカントと同じように,「義務の倫理」を重視しました。その結果として,ひどく狭隘な社会像を描いてしまいました。一方で,ロシアの哲学者ベルジャーエフの主張した組織論は,「服従なき自由」でした。しかし,完全なる自由に耐ええるのは,一部の天才のみです。ベルジャーエフの倫理は,「天才の倫理」であって,秩序を構築する万人の倫理ではありません。本当の組織論は,「自由な服従」を土台に構築されるべきでありまして,自由即服従こそ福音の本質であるといえましょう。
 これからの組織のキーワードは,全体としての人間を象徴した「人格」でなければなりません。また,今までの組織論は私有財産権を土台としましたが,これからの組織論は「所有権の神聖」を土台とせねばなりません。さらに,今までの組織論は基本的人権を絶対化しましたが,これからの組織論は「神の委任」という視点から構想せねばなりません。

新しい組織論


四つの次元


 この世界には,四つの組織が存在します。第一に,この世を地獄化から防止する国家です。第二に,神の国の原動力である教会です。国家はこの世の守護者であり,教会はこの世の見張人です。国家は地に属し,教会は天に属します。国家と教会の間には,さらに二つの組織があります。第一に,家庭です。小さな神の国であり,荒んだ世界における幸福の基地です。第二に,企業です。仕事のための共同体です。私たちは,仕事において,共同体に対して具体的に参与します。家庭・企業・国家・教会,これが世界における四大組織です。これらの組織体が健全に調和する時,「神と和解した世界」が成就します。

家庭


 家庭とは,出産するための機関ではありません。あるいは,血の繋がりを維持する生物学的組織ではありません。家庭とは,新しい人間です。家庭において,愛する者同士は一つになり,新しい人間となります。場合によっては,子どもを出産し,新しい人間をこの世に送り出します。
 神と人間は,合わせ鏡の関係です。では,家庭によって,神のどんな側面が表現されているのでしょうか?それは,「和解者としての神」です。家庭を通して,私たちは神の許しを知ります。私たちは,生きねばならないのではなく,生きることを許されています。住居は,単に雨露をしのぐ場所ではなく,平和を享受する楽園です。飲食とは,単に肉体を維持するためではなく,それ自体が楽しむことを許されています。遊びは,単に束の間の背徳的行為ではなく,創造性を涵養する大事な要素,それ自体が目的となる自由な行為です。いずれにせよ,福音の下にあって,家庭は祝福された組織なのです。

企業(仕事)


 家庭が「新しい人間」の創造であるならば,仕事は「新しい価値」の創造です。私たちは,仕事を通して,社会に役立つ快感を覚えるのです。社会的存在である人間は,内面的世界のみで満足できません。具体的に世界に参与し,有用な人間であること。内面的世界と現実世界,思想と仕事こそ,幸福の条件であるといえるでしょう(カール・ヒルティ「幸福論」)。
 仕事を通して,私たちは「創造者としての神」を理解します。仕事は創造です,自分の独自性を発揮することです。仕事は健全性です,人間は人と交わって人になるからです。仕事は自主独立です,自分の手と汗によってパンを食べるからです。仕事は責任です。それがどんな仕事であるにせよ(会社員にせよ公務員にせよ自営業にせよ),私たちは自分自身を懸けて働く時,歴史を導き給う神の御手に身を委ねるのです。

国家


 家庭と企業を守るべく,国家が存在します。国家は平和の基礎であり,自由・生命・財産の守護者です。国政にたずさわる者(政治家),あるいは,国家の舵取りを左右する者(国民)は,何らかの宗教的理想に耽ってはなりません。いや,すべての理想を放棄せねばなりません。国家は,徹底したリアリズムによって運営されねばなりません。小さな理想は,家庭で成就すればよいでしょう。もう少し大きな理想は,仕事によって実現すればよいでしょう。高尚な理想に耽りたければ,教会の中で祈りながら夢想すればよいでしょう。しかし,国家の使命は,国民を守ることです。どんな手段を用いようが,国民を守護することです。政治学において,目の前の現実以外に考慮すべき材料はありません。
 国家によって表現されている絶対者は,「救済者としての神」です。国家は,力と力の対立によって,今日の平和を保障しなければなりません。国民を守るためであれば,敵国に容赦してはなりません。すべての人間が善人であるならば,こちらが一歩譲れば相手も一歩譲るでありましょう。しかし,悪人が跋扈するこの堕落した世界において,相手の善意を期待して一歩譲れば,相手は二歩も三歩も前に出て,遂には私たちを殴打・殲滅するでありましょう。野獣的国家に対する最良の手段は,軍事的な一撃であることを忘れてはなりません。これが冷徹な現実です。

教会


 教会は,既成宗教の団体ではありません。神の子たるべきすべての人間に及ぶ霊的組織体です。教会は,この世を聖化する唯一の組織であり,この世における神の代弁者です。家庭も企業も国家も,自由気儘に己の正義を語るでありましょう。しかし,教会のみは,神の正義を語らなければなりません。教会は,喝采されるより罵倒されることが多いはずです。真の教会は,この世の栄光を甘受する「勝利の教会」ではなく,この世の悪と対峙する「戦う教会(church militant)」でなければなりません。
 教会は,神そのものである「イエス・キリストの具体的表現」です。本物の教会は,この世の良心であり,イエスが命じたように「地の塩」でなければなりません。教会の使命は,神なき場所に神を伝えることです。それは,善悪を教えることではありません。「何が善であるか?」は,教会が発する問いではありません。「何が神の御心であるか?」これが,教会及び教会に属する人々が発する問いでなければなりません。
 国家は,世界の現実に目を向けます。が,教会は神の現実に目を向けます(神の現実とは,イエス・キリストの十字架です)。神の現実とは,ストア主義や儒教のような「自己の眼差し」ではありません。あるいは,日本社会のように恥の文化が重視する「他者の眼差し」でもありません。永遠の命を司る「キリストの眼差し」です。キリストの生涯と死と復活の視点から,私たちは他者を叱責し,慰め,励ますよう召されているのです。「どんな形であれ,大なり小なりキリストを知った人間は,神の現実を表現するよう召されている」という事実を忘れてなりません。

おわりに


 世界は,家庭・企業・国家・教会によって構成されます。一方で,私たちは,すべての組織に関わらざるを得ません。では,私たちは一体,どう生きるべきなのでしょうか?これらの組織が健全であるために,私たちはどうすればよいのでしょうか?その答えは,各自が発見すべき性質のものであります。責任ある命の使い方,これは各自の独自性や任務と関係あるからです。
 しかしながら,私自身の答えを申し上げておきましょう。私はどう生きるべきか?その答えは,イエス・キリストに近づくことです。イエス・キリストは,受肉して人間となり,十字架につけられ,復活した方です。このキリストの現実によって,私の生は規定されています。人間になったということは,「人間的であれ!」というイエスの声です。私たちの罪を贖うため十字架に上ったということは,「己の罪を自覚せよ!」「神の裁きを受け入れよ!」というキリストの声です。最後に,復活されたということは,「新しい人間であれ!」「この世の真っ只中で,神の国の民となれ!」というイエス・キリストの声です。私は,このような声なき声に耳を傾けて,己の命を神の御用のために捧げねばなりません。なぜなら,私は私の所有物ではなく,神の所有物だからです。


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