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泣きたいモロヘイヤ

あれは丁稚奉公時代の話

やんちゃな飯屋で一緒に働いてた仲間に
リョウ君と呼ばれる細身で長身の、今で言う色白塩顔イケメンの男の子がいた。

リョウ君は、とても優しい性格で。
丁寧な言葉遣いの、物腰柔らかな好青年であった。
こちとら芸術大学を卒業して尚もモラトリアム気取りで。
ささくれだって鬱屈とした感情を抱えていた某とは対照的な人物だった。
生活のために不本意な仕事で働き倒す忙しさや、25歳を超えて何者にも成れていない自分への苛立ちで、心身ともに病んでいたせいか
俗に言う自律神経失調症診断が下り、体温調節ができない体に成り腐っていた。

カーディガンやショールを常に着たり、脱いだり。スタッフの皆と外食しても、誰かの家で歓談してても、常に衣服を脱いだり、着たり、また脱ぎ散らかしたり。

そんな中いつもぐちゃぐちゃに丸めて側に置いていた上着を、さりげなく、かつ、いちいちハンガーにかけてくれたり、
羽織ものはプロ並みにきちんと畳んでくれたり、なおかつ、それらが必要になったら周りに気づかれないよう自然に手元に持ってきてくれるような…
そう、よくできた古女房のような青年だった。

私はリョウ君の細やかさと温かさと丁寧さが心底羨ましかった。


肌寒い季節になるとリョウ君はダッフルコートを纏い、その大きめのポケットには、何かしら文庫本の類のものが常に入っていた。

偶然同じ電車で彼に遭遇した夕暮れ時
本を読んでいる端正な顔立ちを彩る
伏せたまつげの影が異様に長いことに
密やかに慌てふためいてしまった
こともある。


あれから長い年月が経った。
電子書籍の発達も進み、本を買う人間など最早少数派かもしれない。
けれども、リョウ君が今でも紙の本を読んでいることを強く確信している。
根拠無き自信は
希望的観測
思い出補正

もし今彼に邂逅出来るなら、ダッフルコートのポケットの中に
前置き接続詞も無く、
この手を滑り込ませて文庫本の存在を確かめるだろう。
その衝動を止める理性は断じて、
無い。



「こいつ、ほんっとにバカなんすよ」
愛おしさを零しながら
茹だる様な、とある熱帯夜にリョウくんの恋人が溢す

2人が"僕たちの子供"と育てているミニチュアシュナウザーと
私の
4匹
メニュー表がなく、献立は店の壁に店主の達筆な書で書かれている
仲間の行きつけの居酒屋に行った時の話。

明るく屈託のないカタギの勤め人をしていると言うその恋人は、
私の知らないリョウ君の話をまるで彼の出来の悪い‥それでも可愛いくて堪らない息子のようにいろいろ話して聞かせてくれて。
リョウ君は私には見せてくれなかった豊かな泥臭い表情で本気でムキになり

「俺は馬鹿じゃない、お前は人を馬鹿にしすぎだ」
と普段は青白い生気のない顔を耳まで真っ赤にして反論していた。

夜は更け、酒も進み、話は弾み、小皿も減っていき、何か追加で注文しようと話し合っていた時である。

忘れもしないだろう。
リョウ君は初めて私の下の名前を呼び、壁のメニューを一瞥した後、
不健康で愚かな女の目をまっすぐ見つめ、こう聞いてきた。

「なぁ、"モロヘイヤのおひたし"って、何の肉?」


そのセリフはトリガーとなり激しく打ちのめしてきた。
比喩
ではなく、実際に、座っていた椅子から崩れ落ちて涙ぐんでしまった。
を切って溢れてくるという感情を初めて知ったからだ。
今までリョウ君に対する鬱屈とした意味不明な感情を自分の中で咀嚼できずに気づかないふりしてをしていた。
認めざるを得ない現実に直面してしまったのだ。

私はリョウ君のことが好きで、好きで、どうしようもなくただ大好きだと確信したのだ。

目の前にいるきちんと清潔に洗濯されたシャツを着用して、黄金比丸出しの顔立ちのこの男は、涼しげにきょとんと私と恋人の顔を見比べる。
どうしよう馬鹿げたことを言ってるのにこいつがいとおしくてたまらない。
涙が出るほど苦しいのに幸福でたまらない。
この感情を恋と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
目頭から溢れる熱いものに気づかれても構わない気持ちであった。

しかしながら、彼の恋人が目の前の女が涙を流す原因は、無知な己の恋人の失言だと受け取り、呆れて笑い転げ泣いているのだと誤解してくれたのは今世紀最大の不幸中の幸いである。

モロヘイヤって先ず野菜だろうが!?
100歩譲ってその野菜の名前を知らなかったとしてもおひたしって肉の料理じゃないだろうが!?
野菜を煮浸したものが何で肉に…
何の肉って聞く前提はどっから来たやんや!?
と、矢継ぎ早
白いタンクトップからはみ出る石膏像のように均整な筋肉を褐色の肌で包んだを腕を振りかざした彼の恋人は激しく突っ込んでいた。

いやいや、モロヘイヤのおひたしって語感肉料理じゃないってわかる?
わからんよな?
思ってたよなぁ?
何かの肉だって!
そんな仕様も無い反論を美しい男が私に宣う

恐らくきちんとした両親から人様の自尊心を傷つけるなと愛情深いしつけを受けてきたであろう育ちの良さそうな恋人は

お前失礼やろ
なんで死なば諸共みたいに他人も愚かだって前提で話、進めてんねん。
謝れや。

半ば本気でリョウ君は叱られていた。


それから暫くして、リョウ君は私たちが一緒に働いてた飯屋のオーナーと
大した事件や理由は無いが気が合わなくなり、
カタギの恋人が勤めている関連会社に縁故就職することになった。
私もその数ヶ月後に、回復しない壊れた自律神経からの体調不良でいよいよ療養生活に入ることになり、
更に携帯電話のデータが故障で全部飛ぶと言う事件も最中に起こった。

そんな‥ほんの僅かな時空の歪みのせいか、
はたまた、あらかじめ決められたシナリオ通りなのか‥リョウ君にはすっかり会えなくなってしまって今日に至る。

「あんたはいいやん、いつか誰かと結婚できるから」
密かに恋敵にさえなれなかった相手に呟き、シュナウザーを抱き上げて笑った彼の恋人にも、勿論会えていない。

今では、リョウと言う人物がほんとうに存在していたのかも疑わしい。
何故なら、今現在リョウ君がいた世界線とは全く違う世界線
心身ともにすっかり回復して、いささかふくよかになりすぎた健康的な体でのうのうと生きているから。

ただ、冬めいてきた街で
ダッフルコートを見かけるたびに、
鮮やかにリョウ君を思い出す。

文庫本を上品に電車内で読んでる清らかな青年を見るたびに、
強烈にリョウ君が蘇る。


そして、モロヘイヤをスーパーで見つけるたびに泣きそうになる。

私はリョウ君と過ごしたあの時間が、確かにいつか存在したことを、モロヘイヤのおひたしを作りながら涙ぐんで懐かしむ。


あのとき伝えられなかった

「リョウ君、モロヘイヤのおひたしは何の肉でもないよ」

と、言う、パワーワードを、口ずさみながら。

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