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#週一文庫「ハイデガー入門」竹田 青嗣


一番面白かったのは、P65-66 第二章『存在と時間』1 -人間存在の本質の研究

「この部屋にあるこのテレビは、客観的な「存在」としては、「放送された電波を受信してひとびとの視聴に供するための機械」ということになる。さらにそれは、その機種、機能、値段、等々が一般的に記述されうる。だが、「配慮的な気遣い」から見られたテレビは、あるときは、映りが悪くて見にくいテレビであったり、部屋の割に大きすぎてうっとうしい調度だったりする。それだけではない。
今真夜中で<私>が寝ていると怪しい物音がして、どう考えても賊が忍び込んでいる気配がする。このとき<私>はとっさに周りを見まわして、何か武器になるようなものを探す。部屋に目ぼしいものが何もなければ、<私>はこのテレビを、適当な重さをもち、投げつけることで相手にダメージを与えうるためのもの(=道具)として、"認知"するかも知れない。テレビはここで身を守るための武器、という「存在意味」を露わにする。このようなとき、この「武器」としてのテレビは、まさしく<私>の「配慮的な気遣い」から、言い換えれば、<私>の実存的な「いまここ」の地点から見られた「道具存在」だと言えるのである」


ここでは、「テレビとは何か?」という問いを例に、
3種類の捉え方が示されています。

ざっくりと画で示してみると次のような感じです。


客観的な「存在」としてのテレビ。
つまりは、物質としてのあるがままのテレビとしての捉え方。

あるいは、「配慮的な気遣い」としてのテレビ。
つまりは、そのテレビを目にしている人にとっての、テレビの捉え方。
置かれた環境や、その人の考え方、身体的特徴、あるいは感じ方などによってテレビがどのようなものであるのか、異なる捉え方になりうる可能性を持っていることになる。

このモノの捉え方、噂に訊く「ジョブ理論」クレイトン M クリステンセン 他著にも、似ている捉え方なのではないかと勝手ながら考察します。

すなわち、客観的な存在としての、そのモノの機能や値段、色等々に焦点を当てるのではなく、人にとってそのモノが、どのような役割(ジョブ)を持っているのかということに、焦点を当てて、理解をしようとする考え方です。

上記のリンク記事でいうと、
「とあるミルクシェイク店の物語」なるものがあるそうですが、ファストフード企業が何を見て、どう改善しようとしていたのかが参考になります。

これも簡単に図にしてみると次のようなことです。

本書を読みながら、似ているなあと思ってしまったからには、書かずにはイられませんでした。

個人的には、哲学 = 難しいものという先入観のあり、敬遠しがちなのですが、こういった、身近な知っていることと結びつけていくことによって、少しづつでも理解ができると、嬉しく感じます。

とはいえ実際のところ、読み終えたところで、半分も理解できているか怪しいところではありますが、こうして一歩一歩でも、自分の知っている世界を広げていくことのできるのが、多ジャンル乱読ならではの為せる出会いだなあと思うところです。




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