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あなたの個性を決めるのは誰か【ダイバーシティ#3】

こんにちは、Studio Topitaです!
私たちは理想郷を本気で「想像」「創造」するサークルと称し、毎月テーマを決めて語り合い、議事録をアップロードしています。
ぱっと聞いただけでは「?」かもしれませんので、どうぞ是非、自己紹介をご一読いただきたいです。
(常連さんは、いつもありがとうございます!)

Studio Topia10月
第2回「フィクション作品から考える『ダイバーシティ』は理想郷か」

「あなたの個性を決めるのは誰か」。

「私」?あるいは「誰かに決めてほしい」でしょうか。

「多様性」の大事なキーワードでもある「個性」ですが、よくよく考えてみると、身体的特徴や性格、能力など色々あります。それに、ものすごく多面的で、自分は優しいつもりでも、誰かから見たら厳しかったり、甘やかしだったり。「多様性社会」において、わたし、の個性とはいったい何で、誰が決めるものなのでしょうか。

ここで、前回までの「多様性」に関する議論を軽く振り返ります。

前回は、現在言われている「多様性社会」は「多様を目指して実現するもの」であり、それは「多様であるべきだ」という考え以外、、排除してしまう、、、、、、、ため、「多様性」と矛盾しており、問題がある、と明らかにしました。
そのうえで、「お互い思いやる」「決めつけない」といったスタンスを大事にして、そのうえで社会が多様である状況を「多様性社会」と呼び、それを目指すべきであるという結論に達しました。

今回はそういった議論を踏まえながら、多様性の重要な観点である「個性」について、『ズートピア』や『僕のヒーローアカデミア』、『HAIRSPRAY』といったフィクション作品をきっかけにして、いったい個性って何なの?誰が決めるの?「生かさ」ないといけないの?などなど、ベーシックなところから問い直していきました。

自分で思う個性と他人が思う個性が違ったり、強く示さないといけない場面があるかと思えばそれが全てではなかったり。個性とは多面的で、濃淡があり、揺らぐものです。そして、社会という文脈の中で語るとき、責任や能力、志向性など様々なファクターと合わせて語る必要があると明らかになりました。

以下、議事録です。

議事録

多様性と個性
「多様性」という言葉にどんなイメージを持つか。まずはこの質問からスタートしました。「そもそも人は違うものだから、(多様性が)認められなかったら辛い」「多様性を主張する人と、それに反対する人の争いがある。度が過ぎているときがあって、言葉によって自分を追い詰めてしまっているのではないかと思いながら見ている」といった意見が出ました。とくに「多様性」という言葉の前提や問いの焦点が共有されていないと話がかみ合わなくなる、という言葉が非常に共感を生みました。前提や焦点共有の重要性は、今回の「個性」にも言えることである、と、会を通じて大切にされた観点です。

個性と責任
そして、まずはじめに、『ズートピア』の「誰でもなんにでもなれる」といった言葉を引用しながら、「能力ではなくやりたいという意思が優先される社会は理想か」といった問いが出ました。「やりたい、だけにスポットライトが当てられがちだが、そこに覚悟、責任はあるのだろうか」と応じられ、「個性」と「覚悟」や「責任」の関係について語ることになりました。このとき、個性は「自分の志向性とそれによる選択の結果」ということになります。
なにかをしたり、選んだりできる機会が増えた社会だからこそ、「やりたいこと」が増えて(=個性の選択にかかるコストが低くなって)、「出来る/出来ない」の差が明らかになりやすくなったのでしょう。その際に本当にやりたいのか?続けられるのか?全うできるのか?は今後も大きな問題となるでしょう。

個性とアイデンティティ
続いて、「みんなが同じで個性(ここでは、単に他人との違い)がなかったとしたらどう思う?」という問いが出ました。同じ顔、性格をした人間が瓶から生まれてくるディストピア小説、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』に影響を受けた質問ですが、「周りとすべて同じだったら虚無を感じる」という答えが出されました。もちろん、我々は「個性があるのは素晴らしいことだ」と思いやすい世界線に住んでいるのでこのように思うのかもしれませんが(現に『すばらしい新世界』内の登場人物たちは、個性がないことを特段問題視しません。そのように教育されているからです)、誰かとの違いがアイデンティティとなり、良くも悪くも自分を規定していきます。

個性の分類
ここで問題になったのが、「何を個性と呼ぶか」ということです。
・自分の志向性
・能力
・身体的特徴
ーーーーーーーーーーー
・自覚する人との違い
・他人から見た自分の特徴
ーーーーーーーーーーー
・生まれつき持っているもの
・努力して手にしたもの
などが挙げられましたが、いずれにしても、「個性」と呼んで差し支えなさそうです。問題は、何を個性と呼ぶか、ではなく、いつ、どの個性が取り上げられるか、そしてその正当性のようです。

個性と比較
さて、「人と比べるな」ということはよく言われることではありますが、皆さんはどうでしょう。会で話題になったのは「平均点を気にするか」という問いでした。自分の立ち位置を知るために有用である、という答えや、自分の目標を大事にする場合はそんなに気にしないこともある、という答えが出ました。皆さんはどうでしょう。
また、「個性=好き」であれば、「自分の好きにプライドを持てて、他人から否定されることがなければ、それこそがあるべき多様性の在り方だ」という意見も出ました。
一方で、好きを極められる場合と、能力や環境によってやりきれない場合もあります。どうしても存在してしまう差。あなたはどうとらえますか。(ちなみに筆者は、やりたくてもできないときは何かしら工夫して、自分にしかできないことをやる!派です)

個性と活躍
さて、ここで「多様性」の話に戻ってきます。「多様性=ダイバーシティ」は、もともとアメリカの労働運動で発せられたものです。
会では、現在の労働市場の風潮、「個性を生かす/生かされる」について、どう思うか、個性を生かすためにはパフォーマンスや主張をしなければならないのか、という問いがなされました。意見として、「示さなければ個性と認めてもらえないのは違う」一方、「採用や人気獲得には他人より優れていると示す必要があるので、示すことが前提となるのは仕方がない」というものが出ました。また、会社などで個性を推すことと社会で生きるときに他人と違っていることは全く別物で、それを同じ「多様性」と呼ぶことに疑問がある、という指摘もありました。「多様性」という言葉が使われる文脈にもいくつかありそうですね。
また、「個性は○○」と分かりきることなどありません。個性とは多面的で、グラデーションがあり、揺らぐものなのです。「活躍」においても、自分の個性を自分で確立し、つきとおしたい人もいれば、他人に見定めてほしい人もいます。そういった違いを考慮した世の中でなくてはならない、というのが結論でした。

個性と能力
「自分を認める」ことが賛美される世の中ですが、それにはどのような条件が必要でしょうか。まずは、自分で選んだ「好き」にプライドを持つこと。一方で、自分では選べない個性=生まれつきの違い、もあります。これには、選べない個性を受け入れさせる風潮ではなく、受け入れられる社会が必要です。例えば筆者であれば、視力が悪いことを誇りに思え、と言われるのは嫌ですが、一方で、眼鏡、コンタクトレンズという存在や、眼鏡のバリエーションなど、目が悪いことを受け入れられる世の中であることはうれしく思います。映画などの「自分らしくあれ!」というメッセージは力づよく、個人へのエンパワーメントとしてはとても素晴らしいものですが、それを社会の側からの圧力とすると、時には自己責任論にも結び付くような問題にもなりかねません。ここら辺の使い分けは注意するべきでしょう。
また、会では、「自己満足は迷惑」という意見が出ました。上手でない会議のファシリテーションや、少しずれますがお葬式へのジャージでの参列などが挙げられました。「やりたいことをやられてそれを『迷惑』と感じる時、どうするべきか」?「多様性という言葉が逃げになりつつある」という指摘もありました。誰かの好き、や、やりたい、を否定していいのか。否定していいとしたら、いつ?非常に複雑な議論ではあります。が、その複雑さゆえに語られないことが多い部分でもあります。議論することなく「迷惑なんて思ってはいけない!」というのが昨今の論調だと思いますし、それに真っ向から反対したいわけではないのですが、理性だけでは解決できない部分もありますし、理性に頼っているといつか何かの拍子で暴走します。何が嫌で、どうするのかが理想であるかは、ここらで一度考える必要があるかもしれません。

次回に向けて:「学校の多様性と障がい」
会は、次週話したいトピックを整理して終了しました。
来週からは「想像編」として、これまでの議論を踏まえながら、理想の「ダイバーシティ」、多様性社会をつくり上げていきます。
社会全体にしてしまうと広すぎるので、今回は「学校」に絞って。
今回の「個性」の話を残して「校則」や「制服」にも触れますが、中心を「学校教育と多様性・障がい」に据えて考えていきます。

今回出た問い

・それぞれの作品を観てどのように感じたか
・能力に関わらずやりたいことだけできる社会は理想的か
・やりたい、という時に人はどこまで覚悟や責任を意識しているか
・好奇心はどこまで大切にするべきか
・好き嫌いははっきりしているか
・選ぶことに対するコストがかからない時、「好き」は強くなるか
・好きと趣味の違いは何か、どう違うか
・テクノロジーで能力を拡張できる時代に何がしたいか、何を個性と呼ぶか
・能力が平等な時、個性と呼びたいものは何でどう感じるか、努力とは何か
・個性は相対的か、絶対的か
・個性とは志向性か、能力か、身体的特徴か
・個性とは先天的か後天的か
・人に伝える個性と自分で思う個性は違うのではないか
・自分の長所は好きか
・人と比べるか、比べないで手に入れたものはあるか
・平均点を気にするか
・個性とは良いものか
・「個性を生かす/生かされる」為のパフォーマンス合戦は受け入れられるか
・自己満足は迷惑か

面白かった意見

・個性とは、パッションみたいなもの
何かを好きだと思うときの理由や背景にまつわる言葉にできないものを個性と呼ぶのではないか。

・現代では、適材適所に当てはまらなければ、自分でポストをつくればいい
「眼鏡コンサルタント」とか「モテクリエイター」とか、自分で好きな職業を名乗れるし、昔よりも好きを貫ける社会になっている。

・テクノロジーが発達して、性格まで拡張できるようになったらなんか怖い
身体的拡張を出来たら「空を飛んでみたい」けど、性格まで変えられるようになるとしたプログラミングみたいで怖い。

・アニメや映画では、「個性」は身体的特徴など見えるものが描かれやすい
『僕のヒーローアカデミア』はそれぞれのヒーローが「個性」をもっているけれど、「個性はやさしさです!」みたいな人は描かれない。内面の個性は描きにくいのかもしれない。

・自分を認め、他人を認めることが大事
ファッションでも、自分の好きな格好をして好きに生きている人はとても幸せそうだと感じる。そのうえで、他人を認めることができればそれでいい。

・個性ですべてが認められるわけではなく、TPOも大事にするべき
お葬式にジャージで来るのはアウトだと思う。

・『アダムスファミリー』は観てほしい!
あれは「多様性」というよりアブノーマル。あれを受け入れられる社会を作るかどうかは面白い議論になる。アダムスファミリーを私たち人間の社会の一部として受け入れられた先は、理想的な多様性社会か、それともなんでもありのカオス(混沌)の社会となるか。

編集後記

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!🥰

今回の会は、「多様性」「個性」と、かなり身近な話題でもあるため、とても盛り上がりました。問の多さ!からもうかがっていただけると思います。

私自身も日ごろから考えることが多く、それを他の人と共有できたのはとてもいい機会でした。改めて『ズートピア』も観ましたし、『僕のヒーローアカデミア』もこれを機会に観始めて、あとはちょうど読んでいた『すばらしい新世界』や『菊と刀』などからも参考になることがたくさんありました。
時代として、絶対的な権力、規範が消えたのが現在だといわれますが、各々がそれぞれの価値観を主張する今、改めて共有できる前提や、少なくとも観点を見出し、整理するべきなのではないかと思わされるところです。

日々生きていても、「多様性」に関する、それこそ多様な意見を目にします。Studio Topiaでは少しでも多くの考えと想像で理想を創り上げていきたいので、ぜひあなたの意見も聞かせてくださいね。(奈都)

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Studio Topia 10月テーマ「『ダイバーシティ』は理想郷となりうるのか」
第2回 「フィクション作品から考える『ダイバーシティ』は理想郷か」
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