見出し画像

「暴力」の対義語を考える【理想の戦い方#2】

こんにちは、Studio Topitaです!
私たちは理想郷を本気で「想像」「創造」するサークルと称し、毎月テーマを決めて語り合い、議事録をアップロードしています。
ぱっと聞いただけでは「?」かもしれませんので、どうぞ是非、自己紹介をご一読いただきたいです。
(常連さんは、いつもありがとうございます!)

Studio Topia 4月
第2回「暴力の対義語を考える」

みなさん、こんにちは。Studio Topiaです。4月も後半ですが、いかがお過ごしでしょうか。
新生活の疲れも出てきているところかもしれませんが、無理をし過ぎず、休める時には休んで、気を抜きながらやっていきましょう!🪴

さて、Studio Topiaでは、4月は「理想の戦い方」について考えます。
きっかけはロシアのウクライナ侵攻ですが、アカデミー賞授賞式でのウィル・スミスの事件なども含め、このテーマを選定しました。

「良き暴力は存在するのか、だなんて…」、「そんなこと問うこと自体おかしい」と思われるでしょうか。
Studio Topiaの目的は、「本質を考え直すこと」。そして「理想を想像すること」。当たり前だ、と思われていることにこそ光を当て直し、あるべき姿を模索していきます。ここで改めて「戦うこと」「暴力」を捉え直し、我々がどうやって向き合うべきかを考えるタイミングとしたいと考えています。

以下、議事録です。

議事録

ウィル・スミスの件はこのままでいいのか?
ウィル・スミスの「ビンタ事件」、報道等でも大きく取り上げられました。事件には賛否両論が寄せられ、その「賛否両論ある」ことが議題の中心になってすらいるような印象も受けます。皆さんはどう思われたでしょうか。
この問題の切り口は、「人を守るための暴力はいいのか/悪いのか」「人を傷つける発言は非難されなくていいのか」「国によって暴力の捉えられ方はどう違うのか」など多岐に渡ると思われます。会の中でも、率直な意見として「暴力がいけないとして、なぜウィル・スミスだけが責められるのか。人を傷つける発言をした方にも問題がある」というものが多く出されました。さらにはアカデミー賞の人や作品への向き合い方を疑問視する声も見られたり、「言葉の暴力」ももっと非難するべきなのでは、という意見もあがったりしました。
さまざまな切り口はあれど、現状にはなんとなく違和感がある、というのが共通認識のようです。
おそらく、結果だけでなく、そこに至った経緯こそ検証すべきなのではないでしょうか。今回で言えば、まずはアカデミー賞のスタンスを考え直し、今の在り方でいいのか、必要な謝罪はなかったか、などを考え直すことがとても重要なのではないか、と話し合われました。

暴力は悪か?
そして、会の中では、「暴力は全て悪なのだろうか」という問いかけもなされました。思い切った問いですが、これは、暴力とは何を指すのか、という問いかけも含んでいます。
「手を握って人の頬にぶつけることを『殴る』といい、通常それは『暴力』と呼ばれる。一方で、それがボクシングのリングの上であれば非難されるどころか、推奨される。かつて体罰は『教育』とも呼ばれた。今『暴力』と言われるものは、果たして何を指しているのか、ミニマムにとらえてみたかった」と説明されました。
これに対し、「暴力とは相手を理解することから最も遠い状態を指すのではないか。同じルールを共有せず、ただ相手を不当に傷つけることは避けられるべきであり、悪とも呼べるのではないか」という意見が返され、シビアではありますが、「相手を理解しようとしないことが既に暴力だ」と、むしろ暴力を大きく解釈する視点も出されました。

暴力の対義語は何か:理性、救済、和解
「暴力の対義語は何か」。これは、今回のStudio Topiaで盛り上がった部分で、先ほどの「暴力とは何か」という問いに続くものでもあります。暴力を感情爆発と捉えれば、対義語は「理性」になり、見せしめと捉えれば対義語は「救済」となります。
会で出たのは、「和解」でした。すなわち、「暴力とは、相手を理解することを放棄すること。その反対は、どんなことがあっても相手を理解しようとすること、という意味で『和解』ではないか」ということでした。
「和解」とは無条件での許しや、過去の忘却ではありません。相手を理解しようとすることと、問題があれば非難することは両立するはずです。
「両方の立場について考えよう」というと、よく、「どちらにもそうするだけの理由があって、完全な悪などない」という文脈で語られ、それが非難されることがあります。ですが、両方の話を聞くことが、そのまま両者の肯定に結びつくことはないと言えるでしょう。一旦話を聞いて、客観的に両方の立場を整理することこそ必要なのではないでしょうか。

余裕のある人が考えればいい
ただし、争いの当事者は、客観的になど考えられません。
そこで、第三者の登場です。
その件に関して、当事者とは違う立場で冷静に見つめ、ジャッジをするorジャッジのお手伝いをする人。
そして、この第三者は移り変わってもいくでしょう。
今第三者な人もいつ当事者になるかわかりませんし、当事者になったら冷静なことなんておそらく言えないでしょう。その時は、その時に余裕のある、別の第三者の人が考えればいいのです。
いずれにしても、社会全体で解決すべき問題があるのなら、どちらかに肩入れすることだけでなく、第三者となって問題を見つめる、というやり方もあるし、そういう存在が求められているのではないか、という意見がまとまりました。

編集後記

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

むずかしめなテーマということで重い部分もありましたが、「理想の戦い方」、いかがだったでしょうか。

この記事の中でも一つの答えとして出されている「和解」。
そもそも戦いを放棄するような考え方とも言えるかもしれません。

友人と話していると似たようなことを考える人も多く、この時代の一つの風潮なのではないか、と感じています。

一方で、具体的に考えてみると難しく、果たしてそんなこと可能なんだろうか、と思わされる日々でもあります。
例えば、戦いと一口に言ったところで、そこには権力や立場の差もあるわけです。それを「和解する」といっても、果たして何が和解なんでしょうか。弱い立場の者が「戦い」を放棄すれば、それは降伏や服従になるのかもしれません。

「和解」については良く考えますが、正直難しいですよね。
ただ、そこのところを諦めずに考える姿勢がまず大事だなあと痛感しています。
次に大事なのは答えをきちんと出すことですね。笑

ということで、次回以降も答えを探して猛進していこうと思います!(奈都)

・・・・・・・・・・・・
Studio Topia 4月テーマ「理想の戦い方」
第2回「暴力の対義語を考える」
Cluster・Zoom(カメラオフ)

今後も更新していきます!
楽しんでくださった方はぜひフォローしてお待ちください😊

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?