「ぼくには「美しい」がわからない 美をめぐる木工職人と美術家の対話」を視聴して
京都のギャラリー日日さんのHPを拝見していると
目に留まったイベントがありました。
下記内容で行われたオンラインイベントです。
【オンライン トークイベント】
「ぼくには「美しい」がわからない
ー美をめぐる木工職人と美術家の対話」
日時)2021年1月13日(水) 18:00~19:30
主催)京都精華大学グローバル教育センター
・仁城義勝 (木地師)
・小松 敏宏(美術作家/京都精華大学教員)
・米原 有二(京都精華大学伝統産業イノベーションセンター長)
視聴してみて、僕のなかに残ったことば、または心といって良いか分かりませんが、記しておきます。
それは「そこに作為があってはならない」という言葉です。
いわゆる言語をもたないことを望む、物作りについてお話でした。
「アートとは反対」 「消去する世界」 「例えば母親が子に料理を作って出す行為 ここには思いやりや愛があります そこに僕は必要ない」とお話されていました。
向き合ってきた時間、器作りに望む行為や言葉たちの美しさはとても自然で精神性が表れているように感じました。
「季節に合わせて木取りし木に向き合い、自らに向き合うことで生まれる器には自己が無いこと、作為的になるといけない、自己表現がない、喋らないことを追求することで生まれる美しさ」
お話に中では「究極の普通」なんて言葉もあったかと思います。
僕は、その無垢な自然な器の姿に、触れてみたいと思いました。
その無垢さは、ある種、子供の純心無垢な姿に近い何かがあるのだろうか?
興味が尽きません。
「季に向かい会いながら、木に向かい会い、気に向かい会う」
ひとつひとつしっかりと美しい。
自然と共に仕事をすること直接手をふれることで作り出すこと、僕には美しさを感じます。
僕らは空間を作ることにおいて、言語が共存することで、あるいは溶け合ったり思考を帯び連鎖することで、空間を作り出します、建築においては、都市や周辺環境に対して応答することを思考し、そのひとつひとつが言語となり全体のバランスを見ながら生まれた物で喋ります。
冒頭で述べた作為の無い美しさは、生活の一部として寄り添うシンプルな造形物として憧れます。
おそらく僕らの仕事で現れる無作為な美しさは、意図しないものだろうと思いました。
もう一つの記事でも書きましたが、ひとりひとりが変える想像力、生まれ、育ちからでた、個人というオリジナル、この無限のイマジネーションが掛け合わさることで生まれる、無作為を僕らは素敵なことだと考えています。
「美しいとは感じない自分の肌に近いところで感じると美しいというより心地よい」素敵な言葉を拾いました。ありがとうございます。
アーカイブ添付しております。気になる方はご視聴ください。
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