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第5回「小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を作者が提供し、読者はそれを体験する」(安部公房)

このマガジン「デザインという営みにコピーを与えてみる」では、デザインにコピーを与えるという目標に向かって「デザインを語ることば」を集めています。第4回ではディーター・ラムスの「良いデザインの10カ条」を紹介しました。

さて、第5回でご紹介し、書き留めておきたいのはこちらです。

「小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を作者が提供し、読者はそれを体験する」

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これは「砂の女」や「箱男」で知られる小説家・安部公房のことばです。出典は、NHK『小説は無限の情報を盛る器』。

日本の国語教育というのは、文章があれば必ず「右の文章の大意を述べよ」とくる。文学作品というのは、大意が述べられるという前提、思い込み。ぼくの作品も教科書に載っているんですが、「大意を述べよ」といわれたら、ぼくだって答えられない。ひと言で大意が述べられるなら、小説書かないですよ。ーー小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を作者が提供し、読者はそれを体験する。ーーたとえば、等高線で書かれた地図、目的に応じて読み方が変わるでしょう。際限なく読みつくせるでしょう。無限の情報ですよ、現実は。そういう情報をたたえてはじめて、小説なんだ。意味だけを読み取って、ハイ終わりじゃ。小説とは言えない。
ーー安部公房(NHK 1985年放送『小説は無限の情報を盛る器』より)

作者は無限の情報をたたえ、まだ意味に到達していない原型を提供する。読者は無限の情報を受け取り、その人にとっての現実を構成する

安部公房のことばからは、読書をするという行為も、その人自身を表現することにほかならないということが伝わってきます。

安部公房は、「まだ意味に到達していないある種の原型」を提供するメディアとして、ことばの建造物・小説を選びました。

たしかに言葉というのは不自由なものですよ。イマジネーションをつくるにしても、映像とくらべたらまったくの間接操作だからね。生のイメージをぽんと出すほうがずっと楽だ。ただ間接操作であるだけに言葉のほうが受け手の側でのイマジネーションの自由度が広いんです。デジタルとアナログで説明したほうがわかりやすいかもしれない。イマジネーションそのものはアナログな情報ですよね。それをアナログのまま伝達するか、いっぺんデジタル化して伝達するか。デジタル化されたものは、もういちどアナログに転換しなおさなければイメージにはならないから、ちょっと複雑な操作を要求されます。しかし、その転換を自分でしなければならない言葉のほうが自由度が広いとも言える。手数はかかるけど、自分の手づくりのイマジネーションの展開ができる
ーー安部公房(『死に急ぐ鯨たち』「地球儀に住むガルシア・マルケス」より)

安部公房が探求したのは、『小説という表現形式の中で、言語の生理へのフィードバック機能を利用し、読者にとって未体験の「現実感覚」を、読者の内部に再構築する試み』でした。つまり、人間の身体感覚に言語でアプローチする。ここに、安部公房の制作哲学が込められていると感じます。

さらに、言語は実体を伴わないデジタルな道具であるがゆえに、嘘八百を並べることもできる。だからこそ、現実をたたえ、科学的な視点に立ち、「嘘のないフィクション」を作ることを自らに課していたといいます。

現象に対する認識論の限界。例えば円をサイクルと思えば、そのように図式化できる。サイクルでないと思えばそのようにも図式化できる。点の羅列とも捉えられるし、そのような捉え方すべては類型的な発想なんだよね。文化論である限りいろいろに分析できてしまうんだよ、現象は。大切なのは、科学的方法をとること。科学的方法をとらなければ、どのようにでも書けてしまうと知る事。だから仮説を立てたら、多角的かつ科学的な視点にたって検証する必要がある。くれぐれもレアケースを法則化しないように。
ーー安部公房(渡邊聡「師 安部公房」より)

安部公房に師事した渡邊聡氏のウェブサイト「安部公房の試み~世界最前衛であり続ける理由~」には、安部公房の制作哲学・小説家技法が論じられています。具体的な解説が面白いのですが、まとめ部分のみ引用します。

「安部公房 小説家技法」は、現代文学を評価する、まったく新たな指針としても、有効である。何故なら、安部公房は、言語による小説化という行為に、『言葉による、想像的現実の創造』という目的を掲げ、その為に大脳生理学、分子生物学、言語学等の素養を利用し、人間の生理を分析し、様々な独自の小説化における手段、
副詞を削る
意識と意識下を凝視する
客観的・生理的な状況表現の創造
言葉にならない感覚の投影体を見つける
嘘のないフィクションを成立させる
「読みたい衝動」と「書きたい衝動」の弁証法的昇華
ラストが見える
生理を客体化し、それを利用している
を駆使して、その壮大な目的に挑戦した、世界最初の作家であったからだ。繰り返し若い世代に読み継がれ、国境や人種、宗教や民族というなわばりの影響を受けず、広く読者を獲得している理由が、そこにある。これらの技法の継承、もしくは発展的応用が今後、現代文学の水準に達しているか、否か、を判断する尺度となる。
ーー渡邊聡(「安部公房の試み~世界最前衛であり続ける理由~」より)

ここには、「言葉による、想像的現実の創造」というビジョンに下支えされた、8つの小説家技法が示されています。

わたしは、渡邊氏がこの小説家技法を、現代文学を評価するための尺度として捉え直している点に着目したくなります。

ディーター・ラムスが「良いデザインの10ヶ条」を定め、自身のデザインを批判的に問い直す尺度として活用した(本マガジン第4回参照)ように、安部公房の小説家技法も、彼自身の小説を批判的に問い直す尺度として機能していたのだろうと想像します


「関係」を意味づける言葉

さて、安部公房の小説家技法へと話題が展開し、冒頭のことばの印象が薄れてきてしまったかもしれません。もう一度、示します。

小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を作者が提供し、読者はそれを体験する

わたしは、この小説の定義に機能美を感じます。なぜなら、小説のすがたを、作者と読者の関係において簡潔に定義しているからです。小説の定義であると同時に、関係の定義でもあるからです。

このように、メディアを介した作り手と受け手の三角関係を自分なりに定義することは、かなり重要だと思います。

安部公房は、この関係を意識して小説を書き続けることで、徐々に「言葉による、想像的現実の創造」という「コンセプト」を導き出したのではないかと想像します。そして、コンセプトを磨き続ける過程で、独自の小説家技法が発展していったのだろうと。

デザインの文脈で考えた時、優れたソリューションを生み出すには優れたコンセプトが必要であり、優れたコンセプトを生み出すには優れた関係の定義が必要ではないかと思うのです。ここでの関係とは、作り手が提供する価値と、人々の体験との関係です。

関係を洞察することの重要性。

作り手と受け手の関係を言語化することで、デザインする対象を捉える視点が見えてくる。わたしはこれを、安部公房から学びました。


おわりに

安部公房の制作過程には、デザインの制作過程とのアナロジーを感じずにいられません。なぜなら、わたし自身が、安部公房の作品とその制作プロセスを通して、デザインを学んだと思うからです。

驚くべきことに、安部公房の8つの小説家技法はどれも、デザインの文脈で機能します。今後、各技法をひとつひとつ取り上げて、詳しく紹介したいと思います。


今回は、作り手と受け手の関係を言語化することで対象を捉える視点が見えてくるということを教えてくれた、安部公房のことば「小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を作者が提供し、読者はそれを体験する」を紹介しました。引き続きわたしにとって魅力的な、「デザインを語ることば」を紹介していきたいと思います。


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