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協働についての覚書:起こったことを、どう伝えるのか?

ライフミュージアムネットワークでの弘前れんが倉庫美術館や八戸新美術館のリサーチの経験から書いたもの。『ライフミュージアムネットワーク2019活動記録集』(2020年、404-405頁)掲載。見出しなど加筆修正。

美術館は地域や市民と、どのような関係を切り結んでいけるのか? 弘前と八戸の美術館の構想を伺い、考えたのは「協働」ということでした。話のなかで、この言葉は使われていなかったかもしれません。それでも何か議論の手掛かりになりそうな予感がします。なので、一旦、ここまで考えたことを、ここに記してみたいと思います。

協働の条件

協働とは、なぜ必要なのか? 異なる役割や立場、技術をもつ人たちが一緒に何かをすることを協働と呼ぶならば、その成果は関わった誰もが予期しえなかったものが生まれることにあるのだと思います。誰かの思い通りに行くことならば、わざわざ協働にする必要はない。求める成果に合わせた業務を委託すればいい。協働は、未見の成果に賭けることから始まるのでしょう。

協働とは、関わった人たちに何らかの変化を起こします。誰も回答はない。まずは問いの共有から始まっていく。「異なる」人たちが集まれば、大なり小なり、これまでにないやり方に取り組むことになります。その成果は新たな問いを獲得することなのかもしれません。それは協働の起点を更新し、(その協働の枠組みから飛び出た)次の実践の種になっていくものなのだと思います。

協働の過程は、とても面倒です。手間も時間もかかります。互いの違いを理解し、それゆえに相手を信頼し、未知の領域を委ね合う。活動領域を明確に定めた役割分担や分業とは違う動き方なのだと思います。その作法は個々人の感覚からは大きく見える「社会」を身の丈のサイズで捉え直すことに繋がっている。そう、協働とは身近な他者とともに、小さな社会をつくる行為といえるのかもしれません。

協働とアート

では、協働とアートが、どう結びつくのか? ライフミュージアムの名付け親でもある港千尋さんは「一般的な美術展が、『すでに起きたこと』として作品を観賞者という集団へ差し出すことだとすれば、アートプロジェクトは『これから起こそうとすること』へ向けて、集団的な身体をつくってゆく営みである」と書いています(注1)。

「これから起こそうとすること」は事前に誰も「起こったこと」を知り得ないことだといえます。誰も全体を把握できない。「集団的」に関わった人々が連鎖反応を起こし、生成変化する状態をいいものとする。アートプロジェクトが内包する態度は、その過程に必然的に協働を呼び込んでしまうものなのだと思います。

美術館とアートプロジェクトの性質は違う。けれども、それは対立するものではなく、いま相互浸透が必要なのだと思います。日本では数十年にわたって各地でアートプロジェクトの実践が重ねられてきました。弘前と八戸の「新しい」美術館では、そうした歴史を背景に、「従来の」美術館から拡張した機能が議論されているのだと思います。それは八戸市新美術館が掲げた「第4世代の美術館」という言葉に象徴的でした(注2)。

新たな機能とは、私たちが「すでに起きたこと」として意義を知っているから要請されるものなのだとも思います。どんな担い手が必要か。どんな技術があるのか。そこからどんな出来事が起こるのか。異なる土地の経験、過去の出来事を、いまだからこそ、相互に学び合うことができるのかもしれません。

八戸で福島県立博物館の小林めぐみさんが語った言葉が強く印象に残っています。学芸員の仕事は(地域との関わりにおいて)非常時に必ず役に立つ。ものの来歴を調べることは地域を知ることであり、そこには人との関わりが介在する。そうして培われた技術や関係性は非常時に機能する、と。震災後の経験から実感が込もった言葉でした。

「これから起こそうとすること」は事前に説明が難しいものです。だからこそ、他者の経験を使うことで、未見なものに向かう架け橋となる言葉をつくる必要があります。そのとき新しく語り出す言葉は、私たちが、すでに知っていることと地続きなのかもしれません。

成果を、どう語るか?

協働の現場では、目の前にいる人々との具体的な関係づくりが求められます。その場の規模は必然的に小さくならざるをえません。その場でうまれる価値に立会うことの出来る人の数は限られてしまいます。安心して関係を結ぶ場をつくるためにも、その場にいない人に「起こったこと」を伝える手段が大事になるのだと思います。それはあったことを記述するだけでなく、伝わるかたちに描写し直す技術が求められるのだと思います。

その成果の語り手は往々にして協働を「仕掛ける」主体になります。しかし、協働の成果とは「事業」の範疇を軽々と超えていきます。関わった人々に蒔かれた種は、それぞれの日常のなかで開花していきます。「業務」の外で見えてくるものも多い。そのとき仕掛けた側が「回収」しない語り方とは、どんなものがあるのだろうか。見えるからこそ、語らねばならないともいえます。ここには語りの技術とともに倫理が関わっているのだと思います。そして、それをふたたび「仕事」の範疇に書き換えるということも。

(注1)港千尋「創りだす手の思想と実践へ向けて」『これからの文化を「10年単位」で語るためにー東京アートポイント計画2009-2018―』アーツカウンシル東京、2019年、85頁(初出『TARL REPORT』、2010年)。
(注2)佐藤慎也「シリーズ:これからの美術館を考える(7)「第四世代の美術館」の可能性」ウェブ版美術手帖、2018年10月20日。

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