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クリスチャンライフについて。これまで恵まれて来たなという回想録?のような。

自分が思っていたほど、宗教や信仰というのは多くの人にとって身近でないらしい(今更!?)

聖書読んでます、というと「なんで?」みたいな反応が来るし(読書会とかだとまぁ受け入れてもらえるか。でも学問や趣味の一環としてでしょ?というのが前提の反応)、そもそも日本人にとってキリスト教というのは「遠い西洋の国で割とメジャーらしい宗教」くらいの認識なんだろう。触れる機会もないだろうし、それはある種普通だとは思う。

私も信仰面でいえば、よくある日本人のそれというか「無宗教です。実家は浄土真宗らしいですが」くらいのものだった。けれど、保育園がキリスト教が母体だったので、卒園前の劇のテーマは「イエス・キリスト生誕」だったし(天使をやれてハッピーだった。本当はマリアさまに立候補したんだけど人気すぎて落選…というか当時からオーディションって過酷やな。そこで選ばれた子は、のちに芸能人としてデビューする。やはり華があったのだろうか。。)、時々イエスさまの生涯をビデオで見たり、ご飯の前には「てんにましますわれらのかみよ」とお祈りしていた。お祈りは大好きだった。

神さまとか天使って、いるんじゃないかなあ?とどこかで夢想する中高生。でも特に勉強などはせず。

大学は本当になし崩しで選んでなし崩しで入学したのだけど、キリスト教には変わらずシンパシーがあったので、嬉しかった。周りにもクリスチャンがいて、「別にこの人たち、自分となんも変わらんのだなあ」と肌で知る日々。クリスチャンホームで、という人もいれば、教会で祈っていたら世界が白と黒に分かれて啓示が降りてきた、という凄まじい宗教的体験を経たボーンアゲインクリスチャンも。すごく興味を持っていた。

そして専攻もなし崩しで「宗教・哲学」を選ぶ。人の思想を追うのは好きだし、テストよりもレポートの方が好きだった、し、思慮深い人が多くて面白かった。みんな個性が過ぎる。そのゆえか、私は自分のこと量産型とは思わないけど、変人だと思った事がない。もっと変な人はいるんだ。

専攻も、結果正解だったのかな。でも当時は東洋哲学専攻で、聖書はいっぺんも開かなかったけど。

ただ尊敬する先生がとても敬虔なクリスチャン&神学者で(学生時代の彼女さんに影響されたらしい。意外と俗っぽいものだ)、その方の著作に「神は人と人の間にいる」といった趣旨の事が書いてあり、いたく衝撃を受けたのを覚えている。勝手に腑に落ちてしまった。あまり自分も他人も傷つけちゃいけないよねえ。

まあ卒業後はそんな事も忘れていたのだけど、色々に色々が重なってまた聖書を開くきっかけがあり、これが自分の人生で追求すべき大きなテーマかな、と今になって思い始めている。神学、もどこかのタイミングでちゃんと学ぶのかも?

つまり、自分は信仰生活を歩む上で、とても恵まれた環境で育っていたのだなあ、と思ったという話。今通ってる教会も、とてもアットホームだけど上品で、真面目に(でも楽しく!)神さまを賛美しているし。するとあら不思議。死にかけメンタルから霊的に超回復。毎週ちゃんと通うのは霊的チャージのため。。。私は精神的にセッション切れが起こりやすいやつなので、蟻地獄から抜けるにはちゃんと通う必要があるのだ、と思う。

正直楽しい、嬉しいと言うのがどう言う事か未だによくわからず(最近はほんのりと感じ始めている…か?)「しんどい」が大部分を占めて来たこれまでだったけど、霊的・精神的な学びを得る上ではこの上なくリッチな環境だったわ。それは人間的な辛い、や悲しみの体験も含めて。一時期は「自死」と言う言葉が自動エンジンのように頭を常に駆け巡っていて、どうなるかと思ったけど。それさえも転化されて、今は「生きてりゃもう御の字」くらいに思う時もあるよ。死んだから生きてる。てーか「あれだけギリギリの精神状況でも実際に行動に移さなかったのは、私がはたらいていたからだよ」と神さまに言われました。なるほどありがたい悔しいありがたい。

つらつらと回想録になってしまった。読んでくださった方いたらありがとう。恵まれた週末となりますように!

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