【2つめのPOV】シリーズ 第6回「しがみつく」Part.9 (No.0237)



パターンA〈ユスタシュの鏡〉


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Part.9


(Part.5: こちら Part.6 : こちら  Part.7 : こちら Part.8 : こちら) 





そのすれ違う1秒間に、お互いの攻撃は終了した。


ジョギング男は通り過ぎていった。それで終わりである。


この "攻撃" は、私にはもう懐かしさを覚えるものになっていた。


これはあの向かいに住んでいる老夫婦の使ったものと同じタイプの "銃火器" で、カルト宗教所属の兵士に標準配備された "アンカリング" を使った攻撃である。


かつての開戦直後のときは、この "兵器" が戦場を制圧していた。


あの "騒音" を使ったのと同じで、要はこれもアンカリングによる「威嚇」である。




"おまえも 顔に 雑巾を 付けろ!"



と、いうメッセージの "弾丸" を撃ってくるのだ。


これまでに"被弾" した多くの人がその銃弾の存在にも、自分が銃撃された事実にも気づけ無いために苦しめられた。


最初は大したことはない。
だが、連日何発も何発も受けていると危険である。


人はこの "合法狙撃" による攻撃を受け続けると、次第に人との接触に対して恐怖心を抱くようになってしまう。
そしてそのうちに外出が恐ろしくなっていくのだ。


この悪質極まりない攻撃法は、カルト宗教が長く積極的に活用してきた
 "大量破壊兵器" である。


このテクニックは他にもバリエーションが複数あり、


道を塞ぐ、通行の妨害を行う、車のライトを当てる、すれ違いざまに呪詛を呟く、大げさに手を振り上げる


などがある。



そのどれもが一見何でもないものだ。
だが、この攻撃を繰り返し受け続けると、人は必ず

 

"何か原因があるのではないか?" 


と考え出す。
そして厄介なことに 被害者は




"自分を責め" だすのだ。



これが彼らの狙いである。
彼らの狙っている "ターゲット" とは、その肉体の内側にあるのだ。


そしてその "的" をコントロールすることは、まさにカルト宗教が最も得意とする分野である。


これはその事実を知らないと相当に苦しめられる。
極めて悪辣な手段である。
当然だが、このメカニズムもテクニックも長く隠蔽され続けてきた。
彼らが日常的に実践してきた事実も。

一体、どれだけの人がこれによって苦しめられ続けてきたことだろうか。


だが、もうそれは通じないのだ。


なぜならそれも既に我が軍が世の中に "発射" してしまっているからである。我が軍が彼らの兵器や戦略をすぐに研究し解明してしまっていたのだ。


この悪人たちの常套手段であるアンカリングを使った攻撃にはいくつかの "毒" が含まれている。


威嚇がそのひとつだ。だがそれだけではない。
彼らはその一見日常的な動作の中に複数の "メッセージ" を含めている。




"なぜ顔に雑巾を付けない⁉ バカなのか⁉ 早く付けろ!"


"みんなに合わせるんだ お前ひとりが勝手なことをするなんて許されると思ってんのか⁉"


"周りの人間の迷惑を少しは考えろバカ!"


"俺達は常にお前を見張っているぞ"


"俺達がその気になれば、いつだってお前なんて滅ぼせるんだ"



"黙って 従え"




このような "毒物" がこの武器には含まれている。
そしてその毒は何度も攻撃されることで更に強まる。


はじめは気づきもしない行為でも、日々繰り返されることで "ダメージ" が認識されるようになる。


そしてその毒に全身を内部から侵され、苦しめられるのだ。


それまでの時代の多くの人たちは、こんな邪悪な行動が日常に存在していることを決して認めなかった。


だからその攻撃で苦しんでいる人たちは誰も救われなかったし、その苦しみを公言するだけで気違いとして扱われた。
そしてその状況はカルト宗教にとって実に都合がよいため、その土壌作りもまた彼らが同時に行っていた。


しかし実際には、このような "悪" はいくらでも存在する。
人を苦しめてもなんとも思わず、それどころか喜びに感じる者たちがそこらじゅうに居るのだ。


だが、社会は "悪" の存在を決して認めない。
だから絶対に後手に回るし対策すら講じることはしない。全てが「偶然」で片付けられてしまう。


その理由はもちろん、『悪』は透明だからである。


カルト宗教に限らず、『悪』というものは共通点がある。
そのどれもが必ず暗闇に身を隠すのだ。絶対に表には出ない。
表に出るのはその代理人だけだ。
だが存在はしていて、代理人を介することで活動もしている。
公的な場に姿を表せない暴力組織も、フロント企業を使うことで堂々とビジネスが出来る。銀行口座も不動産も持てる。


表の看板はいくらでもすげ替えられるので古くなったり傷が付いたらすぐに捨てる。先程の "芸能部" サーカス部隊はまさにその "看板" である。


扱っている組織がダメになっても問題はない。
すぐに新しい組織を見つけ "乗っ取れば" 良いのだ。


彼らは実際にそれを繰り返して生きながらえてきた。現在メジャーなカルト宗教であっても同様で、乗っ取りを繰り返すその通過点に過ぎない。
つまり寄生虫である。


散々悪事を行い使い倒して、その挙句に手が後ろに回ったらサッサと資金を持って逃げ出すのだ。


そしてまた手頃な組織に移る。それもなるたけ効率が良くて経営陣がマヌケでスネに傷持つ連中が集まるところが良い。その方が扱いやすいからだ。



民話などにもあるように、物の怪の類というのは、

"自分の本当の名前を知られること"

を、一番に恐れる。

常に偽名を使い暗躍するが、一度本当の名前を言い当てられると途端に姿を消して去っていく。


『悪』というのはそういうものである。

彼らは正体を見破られることを最も恐れる。


名前、顔、経歴、家系、家柄、財産、資産、趣味嗜好、心根、目的…


「消毒には日光が一番」というのは伊達ではないのだ。



彼ら汚らしい悪人たちは日の元に晒されることに恐怖する。腐りきった心のうちを見透かされ、自分自身に突きつけられることを恐れる。
彼らは汚物そのもののような汚らわしさのくせに、その自らの内に秘めた悪意を見せつけられるのを極端に嫌がる。鏡を恐れ、その内側の醜さを決して認めないのだ。それを認めてしまうとそれまでに嘘で築き上げた自我が保てなくなるのだ。


だから彼らは必死になって実態の無い嘘にしがみつく。その嘘だけが、どす黒くて空っぽの中身を支える唯一の柱なのだ。



さっきのジョギング男もまさにそうだ。現在のこのご時世に至ってさえも、未だにあんな古びた武器を奮っている。まだなんとかなると思い込んでいるのだ。


もうとっくに彼らの滅びは確定している。
でもそれを彼ら『上級国民軍』の残党たちは決して認めない。すでに彼らの組織は機能しておらず資金繰りも破綻しているので、あのような末端の兵士たちはかつてのように賃金も得られず、自軍の組織力を悪用して国からの援助を受けて生活することも出来ないでいる。


私はあの男に見覚えはない。
だが以前からずっとこの行動を続けていたのだろうという察しは付く。

昔からカルト宗教に付き従い、毎週会合に出席しては洗脳調教を受け、身内で人の悪口を言い合い、気に入らない人間の個人情報を共有しあって、その週に自分たちがやった "手柄" を自慢し合ってきたのだ。


職場で気に入らない部下や同僚に対してやった幼稚極まりない嫌がらせ、言い寄っても靡かない異性の個人情報を流出させ、カルトへの勧誘を断る家族の幼い子供に対して、自分たちの洗脳を施した年長者をけしかけて甚振る。


彼らはその後ろ暗い心の内を、同じように汚らしい内面を持ち合わせた仲間同士で曝け出し合い、自分たちの汚れっぷりを自慢し合うのだ。


気が狂っていると言ってしまえばそれまでだが、彼らはカルト宗教という汚物を口いっぱいに頬張って飲み込み続けてきた。だからすでにその舌は腐っているし、身体はその毒と臭気で使い物にならない。存在が目に入るだけで不潔な気分になる。彼らは入会はじめの頃に抱いていた違和感がとうに消し飛んでいる。だから誰もその歪んた価値観には疑問など持たない。


カルト宗教とは、言ってみればこのような "価値観の逆転" がミソである。
汚いがキレイとなり悪が正義となる。
罪が名誉であって痛みが喜びなのだ。


それをいかに受け入れ続けるのか、その "我慢大会" の参加者たちが彼らカルト信者たちなのだ。


彼らはみんなこぞって自分の犯した悪事を披露して自慢する。それが彼らの価値観だからだ。汚ければ汚いほどにポイントが加算される。
ズルければズルいほど。醜ければ醜いほど。臭ければ臭いほど。

そして我慢すれば我慢するほどだ。
痛くて臭くて苦しくて不愉快であればあるほど彼らはそれを喜びに変える。彼らの頭には逆さまの定規が突き刺さっているのだ。


しかしその実、彼らはそのように強制されているだけで、実際は誰もその価値観で真に喜びなぞ受けてはいない。


彼らは嘘がアイデンティティであるように、常にウソを演じて続けているだけである。


だから我慢大会なのだ。
彼らは汚くて苦しい人生を、幸福であると演じる舞台に乗っている。
そのステージが、毎週の会合が行われる集会所なのだ。


それが開かれる日曜日以外は、誰もその価値観を本当に受け入れてなんかいない。彼らは既に限界ギリギリの生活をしている。
金銭的にもだが精神的にもとっくに限界なのだ。だから普通の人よりも常に不安や恐怖、怒りや痛みを抱え続けているし、それらにとても過敏に反応する。その原因は自分たちにあるはずなのに、彼らは当然のように他人のせいにする。自分の責任を認めず転嫁して弱い人に当たり散らすのだ。
学校や職場、町中で常に獲物を狙う。獣が如く値踏みを怠ること無く続け、これはイケると思った相手をトコトン付け回し食い物にする。
自分たちの都合で内面に溜め込み滴り落ちる汚い罪を、何の関係もない優しい人に押し付けて拭うのだ。
彼らの身体から不浄な罪の汁が溢れ落ちない日はない。
だから彼らが生き続ける限り、犠牲になる人が現れるのだ。


こういった手法を、彼らはそのカルト宗教内の組織で教わる。
彼らは入信したてのときから目上の者に同じことをされ続けるのだ。
カルト内の組織は常に徹底した上下関係が敷かれている。上には決して逆らえない。そのあらゆる汚らしい行為を全て我慢して受け入れるのだ。

彼らのなかではそれを『修行』と呼ぶ。


そして彼ら末端の信者たちは、自分に擦られ続けた汚い汚物を学校や町中で "拭き取る" 。


まことに勝手極まる話である。
自分の汚れは自分で洗うべきなのに、当然だがそんな常識は通用しない。
価値観は逆であるから。


彼らは光が恐ろしいのも当然なことで、影でコソコソと勤しんできた悪事は喜びである一方で実はやはり苦しいのだ。でもその苦しさを一言でも口にしようものなら、彼らの身内で徹底的に叩かれる。組織内の階段を一気に振り落とされてしまい、先日入信したばかりの鼻垂れ小僧に敬語を使う恥辱を味わう羽目になるのだ。


自分たちの汚い心の内をこれでもかと曝け出している仲間たちのはずなのに、結局はその "本音" のところは一言だって話すことは許されない。


それが何年も、何十年も続くのだ。それがカルト宗教である。


だから彼らは誰よりも食や快楽に依存する。彼らの殆どが大食で病的に肥え太っている。アルコールは連日浴びるように摂取する。損得勘定に異常に目ざとく、わずかでも安いものを血眼になって探している。

クーポン、セール、割引、セット、おひとつ限り、タイムセール、先着何名様まで、会員限定、ポイント2倍、出来たて、焼き立て、今だけ無料…

こんな言葉をスマホで新聞で町中で探し回っているのだ。
彼らは周りの人間と比べて1円でも自分が得をすることで優越感を覚え、勝利と叫び、それを日々の絆創膏にする。
彼らの腐臭が漂うささくれたメンタルは、損得の秤でしか塞げない。


それを今でも続けている。あのジョギング男もそうだ。
ジョギングだって同じように昔からずっと続けているのだろう。だが彼はもはや何が目的でとか、それが楽しくてとか、そんなことはもう頭にはないはずだ。ただ、それまで続けていたことに依存しているだけだ。他のことなど考えられない。ただ惰性で続けているのだ。


彼の進むそのレールはとっくに歪んで断ち切られている。その先にあるのは切り立った崖だけだ。周りで同じレールの上を走っているものはもういない。たったひとり孤独にその転落への道を進んでいる。他のみんなは逆を歩いているのに。


でも彼は止まらない。絶対に方向を戻さない。
そんなことをしたら、それまでの自分の苦労が全て無駄になるから。
自分の過ちを認めたことになるから。


だから絶対に止めない。苦しいことは分かっている。間違っていることにも薄々感づいてしまっている。でも、絶対に止めない。


止めた瞬間に全てが崩れるのが分かっているから。
もう自分の中にある "支え" はひび割れていて保たないことが分かっている。彼は恐れているのだ。


逆に進むなんてとんでもない。止まることすら出来ない。
止まった時の反動で "柱" が崩壊する恐怖に怯えているのだ。
だからそのままのペースで進み続けるしか無い。


彼はもうとっくに、自分の人生を改める権利すら奪われているのだ。




Part.10につづく


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