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短編小説 「最終改札」


六月の夜風が蒸し暑く、駅のホームに立っているだけで額にじわりと汗が滲んできた。今日も一日仕事を終え、ようやく帰路につく私はボロボロになった心と体を引きずりながら、電車を降りて改札へと向かっていた。重い鞄の中には、パソコンと資料で、気が重い。

「あと少しで家だ……」そう自分に言い聞かせながら、改札の前に立ち、Suicaを取り出した。だが、改札機にかざした瞬間、「ピッ」という軽快な音は鳴らず、代わりに「残高不足」の赤い表示が目の前に浮かび上がった。

「あれ?」思わず足を止めて確認するが、Suicaの残高はゼロに近かった。後ろに人が詰まっているのを感じ、焦りが募る。後続の人の視線が痛い。とうとう舌打ちする音が背後から聞こえてきた。

「すみません、すみません……」と謝りながら、慌てて改札から引き下がる。額にはさらに汗が滲み、駅の冷たいタイルがやけに無情に思えた。

「なんでチャージするの忘れてたんだろう……」と自分を責めつつ、すぐ近くのチャージ機に向かう。財布から千円札を取り出し、Suicaに挿入する。「これで大丈夫なはず……」チャージ完了の音に少しだけ安堵する。

再び改札機に向かい、今度こそスムーズに通過。改札を出た時の開放感に、心が少しだけ軽くなった。駅を出ると、まだほんのりと明るい夜空が広がっていた。湿度の高い空気が肌にまとわりつくが、外の風は少しだけ心地よい。

「いつものことなんだけどなぁ……」私は肩をすくめ、駅前のコンビニに寄ることにした。お腹が空いていたので、簡単な夕食を買うためだ。コンビニの冷房の冷気が、火照った体に心地よく感じる。

「何を買おうかな……」と冷蔵庫の前で悩む。今日は疲れているから、簡単に済ませたい。結局、サンドイッチとサラダ、それにデザートのプリンを手に取った。

レジに並んでいると、さっきの改札での一件を思い出して、ふと笑ってしまった。こういう些細なことでイライラしてしまう自分も、なんだか可愛らしい。レジを済ませ、外に出ると、街灯が夜の湿気に滲んで見えた。

「ま、こんな日もあるよね」と心の中でつぶやき、家に向かって歩き出す。蒸し暑い夜風が髪を撫で、仕事の疲れも少しだけ和らいでいく。

自宅に着くと、玄関で靴を脱ぎながら、「やっと帰ってきた」と小さなため息をついた。リビングに入ると、テレビをつけ、いつも通りのニュースが流れている。その音をBGMに、テーブルにサンドイッチとサラダを広げる。

「お疲れ様、自分」と独り言を言いながら、食事を始める。デザートのプリンの甘さが、一日の疲れを少しだけ癒してくれた。窓を開けると、夜風が部屋に流れ込み、カーテンを揺らしている。外からは、どこかで鳴くカエルの声が聞こえてきた。

こうして一日が終わる。改札での残高不足も、舌打ちも、今では笑い話だ。明日もまた、新しい一日が始まる。いつもの日常に、少しだけ感謝しながら、私はテレビの前でソファに腰を下ろした。

六月の蒸し暑い夜は、ゆっくりと過ぎていく。明日もきっと、些細なことでイライラするかもしれない。でも、それも含めて、私の普通の日常だ。今日もなんとか乗り切った自分に、小さなご褒美をあげるように、もう一口プリンを楽しんだ。





時間を割いてくれてありがとうございました。

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