学年最低成績の小学生が航空戦艦に魚雷を載せた事からプログラマーになった話

 自慢できる話ではないが、小学校時代の私は成績が学年最悪であり、相対評価だった当時の通信簿では行き場を失ったCや1を引き受ける被害担当艦だった。

 図工の時間、担当教師は私の作品を見るなりそれを取り上げて高く掲げ叫んだ

「皆さん!**(私の本名)君はこんな汚い物を作って完成したと言ってます。
これは悪い例です。
皆さんは**君みたいな物を作らないようにしましょうね!」

 体育の時間、誰かが何かを失敗するたびに体育教師は
「お前は**(私の本名)並だな」
と涼しい顔をして、面白い大人である事を周囲にアピールしていた。

 国語の時間、担任は私の書いた文字を見るたびにそのノートを取り上げ、高く掲げ
「皆さん!**(私の本名)君はこんな汚い(以下略)」
 という始末だった。

 学校でこの有様なのだから、当然、実家においてはやる事なすことが攻撃の材料になっていたと考えて頂ければ、一瞬で野島先生もビックリの惨劇が、賢明な読者の脳内に表示されたはずである。

 万事こんな物なので「何かをすれば必ず周りが攻撃してくるから何もしない方が良い」と学習し始めた頃である。

 当時、様々な要因が重なり5年生の頃、クラス内で今で言う艦これブーム並みのWW2ブームが発生した。

 元々、図工の教師から「お前は人間に満たない頭の持ち主だ」と言われ続けた私だが、絵を描く事は好きだったのでクラス一の軍オタだった知人"T"から戦場写真集を借り、暫く眺めるうちに艦船の魅力に執り付かれた。
 そして気がつけば既存艦の模写ではなく、オリジナル艦艇を描き始めていた。

 しかし、その点では知人"T"が当然の事ながら年季もスペックも違い、同じ事を数倍高いレベルで仕上げており、秘蔵のデザインノートに毎日プロ顔負けのデザインを連ねていたが、決して誰にもそれを見せようとはしなかった。

 それから暫くして、乏しい知識故にノリで航空戦艦に魚雷発射管を付けた絵を描いていた所、クラスで一番の軍オタだった"T"がやってきた。

 暫くそれを眺めると「ああ、ドイツ艦と言う設定か!」と言って去った。
 戦艦に魚雷発射管を積むのはドイツだけだからなと遠回しに指導してくれたんだろう。

 それから暫くして、何故か私は良く"T"と会話を交わす事が増えた。
 一方、私のスクールカーストは相変わらず最低で、何の為に学校に行くのかと言えば、クラスメイト(酷い時は他所のクラスや学年までもだ!)と教師のサンドバッグになる為という有様だった。

 最も、学校に行かずに家に篭るような事は決して親が許さなかったし、あの当時は「不登校への特効薬は体罰である」と愛知県民達が日本中に吹聴していた時代であったので、うかつに不登校になった場合、その手の「支援施設」で「体罰と言う名のケアプラン」が施され、いよいよどうなるか判った物ではない状態なのも事実であり、完全に詰んでいた。

 そして6年生になった頃、周りのサンドバッグにされる事に耐えかねた私が生まれて始めての大反撃に出た時だった。
 ターゲットに襲い掛かろうとした私の前に飛び出して必死に抑えようとしてきた人がいた。

 知人の"T"だった。

 血を流すべきはあのターゲットなのに、何故彼が血を流しているのだ。
 私は、大義名分を持ってあのターゲットから血を奪おうとしたのに、私は無関係の"T"にケガを負わせるという十字架を背負ってしまった。
 何故"T"はケガまでして、私の反撃を阻止しようとしたのだろうか。
 "T"には関係ない話だったし、何もしなければ彼はケガもせず、私はターゲットに反撃し、それで話は解決したのに。

 何故だ。

 人にケガを負わせた。
 しかも、よく私の会話の相手になってくれた"T"にケガをさせた。
 私は無関係な"T"にケガを負わせてしまった罪の意識と、何故"T"が身を挺して止めに入ったのか、この二つの混乱から完全に言葉すら発する事も出来なくなった。

 その日、私は泣くばかりで何も言えなかった。

 翌日の夕方、家のチャイムがなった。
 誰かと問えば、"T"だった。
 私はもう一度、いや何度も謝らなければならないと思いながら出て行ったが、彼は言った。

「大丈夫か?」

 何故だ?
 ケガをしたのはお前だ。
 ケガを負わせたのは私だ。
 それなのに何故、お前が私を気遣うのか。
 私は判らなかった。

 いよいよ混乱する私をよそに、彼は、何度お願いしても見せてくれなかった秘蔵のデザインノートと、ありったけの戦場写真集と兵器設計図に戦場小説を私に渡した。

「好きなだけ読めばいいよ」

 そういい残して"T"は帰っていった。

 ケガを負わせられ、本来なら私を責めるはずの彼は、全く私を責めないばかりか、あの秘蔵のデザインノートを渡してくれた。
 その意図が理解できず、混乱し、震える手で、私はそこでデザインノートを見た。

 オリジナル兵器のデザインは実に緻密なディティールで彩られ、シルエットも洗練されている。
 その素晴らしさは勿論、もう一つ私は衝撃を受けた。
 全ての兵器に、名前が記されていた。
 それも漢字だ。

 その日を境に、私は文字が(それなりに)書けるようになった。
 特に漢字が書けるようになっていくペースは早かった。
 相変わらず酷い書体だが。

 全く字が書けない私をして、親や教師は怠惰の極みであり最低の人間だと言い、周りからは何故支援学級ではなく普通学級にいるのだと言われ続けた私が突然、自発的に字を書いた事に、周囲は驚いた。

 私は生まれつき文字は読めても文字を手書きで書けず、その事を理由に学校でも家でも常々責められていた。

 幼少期、字を書いた所で大人からは評価の代わりに罰しか与えられなかった私は、字を書くと危害に合うと学習していたのだから、字を自発的に書かなかったのは当然だ。

 しかし、自分が描いた物に名がない事が正しく画竜点睛を欠くと気づいた私は、それらに自分で名を与える事が出来ない事に言い知れぬ不満を感じた。

 作品の名前を書きたい。
 私はそれ以降、字が書けるようになった。自らの夢の達成の為にのみ学習能力は作用した。

 字を読み、自分で物を考え、物語を生む事も出来た私は、医師の検査でも言語系IQが110ほどあったが、字を手書き出来ない者には人権を認めない昭和の価値観の中で生きるのは困難だった。
 近年、手書きで文字を書く事が困難な病気をディスレクシアと呼ぶ事を知り、主治医からも私がディスレクシアのみならず、幾つかのハンディを伴う病気を生まれ付き患っていた事を伝えられてはいたが、昭和の価値観において私は病人ではなく重罪人だった。

 ともかく、私はあふれ出す想いを字にする手段を得た。

 アウトプットする事は楽しいのだ。
 脳内で幾ら考えても文字としてアウトプットしなければ魅力は半減する。

 同様に、文字をアウトプットする事は、私にとって最大の苦痛から最高の喜びになった。
 汚かろうが、大人からけなされようが、自分の思いを文字にしてアウトプットする行為は楽しかった。

 そこから私は変わった。
 何かを生み出す事に喜びを感じるようになった。

 彼が秘蔵のデザインノートを渡してくれなければ、私は一生文字を書けないままだっただろうし、そもそも思いをアウトプットする喜びを十分に理解しないまま、無為な人生を送る事になっただろう。

 一方でその後、転校してきた友人"K"から借り受けたワープロやPCでタイピング、製図を覚えた私は同様のPCユーザーよりも人一倍成果を上げた。

 高校時代には小説サイトや掲示板の小説スレッドに作品を投稿し続けた。
 有る作品は酷評され、有る作品は名作と評価された。

 物事を考え、考えた結果をタイピングで出力する楽しみに気付いた私は、幾つかの仕事を遍歴し、気がつけばプログラマーになっていた。
 10代後半の頃からは、ゲームやアニメを作りたいと思っていた事もあったが、それはアニメのゲーム化プロジェクトに参画して叶った。
 自分の考えたプログラムで画面が動き、状況が刻々と変化するプログラミングは、私にとってとても心地よい仕事だった。

 学年最下位だった私であるにも関わらず、PLやPMも任されたりもした。
 何度かは、新アプリケーションによるサービスの策定もした。

 しかし、企業とのやりとりで私が手書きで文字を書くのは支払いの書類とNDA締結の時に自分の名前を書く時程度だ。
 後は銀行や役所に止むを得ず手書きの書類を出す時。
ポートフォリオは全てIndesign上でレイアウト・タイピングした物を見せて仕事を取っている

 一方、役所や銀行の窓口にいる人達は、私の出す様々な手書き限定の書類を見る度に舌打ちするが、それはこの際黙認しよう。
 現在も私の書く文字は認知症の老人が書いたような物でなので、手書きを極度に重んじる企業との取引はお断りしている。

 ともあれ

『作品には文字で名前をつけなければならないと、門外不出のデザインノートを特別に貸す事で気付かせ、私が拒み続けた文字のアウトプットを出来るようにしてくれた』知人"T"

『私には物作りと言う武器がある事を気づかせてくれた』友人"K"

 二人のおかげで、私は人並み以上の表現力を磨く機会を得た。

 今だからこそ、私はプログラムを書き、小説を書くという文字による自己表現が大好きだ。
 同人活動、ことにプログラミングでゲームを作る事、小説を書く事とは、私に取って最高の喜びである。
 しかし、そこに至るまでの道は二人との出会いによる所が多い。

 事に、すべてのきっかけとなった知人"T"には感謝しかないし、友人"K"は今でも私と20年来の付き合いになる。

 一方、文字の重要性を教えてくれた知人"T"は
(当時は秘蔵のオリメカを見せてくれた事の方が嬉しかったのだが)
その後、造船会社の幹部になって多忙の身の為、なかなか会えずにいる。

 今、彼に私のアニメ作品を見せたら、きっとあの時のように随分と悩ましげな顔をするだろう。
 そして「何故登場艦が英国艦の名前なのか」を問うだろうが、私は「主役だから」と答えるしか無い気がする。

(何故、"T"は知人なのか。友人と呼ぶには、あまりに恩を受けすぎていて、友人と呼ぶのも畏れ多い気がするのだ)
 ちなみに私が作った件のアニメはこちらから視聴出来ます。
 https://www.nicovideo.jp/watch/sm33776714


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