スピード感のある学生だけがすぐれた人材なのか? 物事の二面性33
就職活動ではスピード感がある学生が評価される。人の話を聞いてすぐに鋭い意見を返す。問題を聞くとすぐに答えを提示する。たしかに頭がよく見えるし、実際賢いのだと思う。しかしそのような人材だけが重要な人材だろうか。
前回述べたように、国や社会やコミュニティにおいては、理想とされる人材像がある。例えばあるコミュニティで大胆な人が重要という価値観が支配的だとする。すると繊細な人は日の目を見ないことが多い。繊細な人には確かに短所はある。しかし当然長所もある。しかしそのコミュニティでは認められない。それだけならまだしも、その人自身も繊細さを悪だと思い、その長所を捨ててしまう場合がある。悲劇だ。
就職面接でも似たようなことが生じる。就職面接ではスピード感のある学生がもてはやされる。『採るべき人、採ってはいけない人』から引用する。
スピード感のある学生はたしかに頭がよく見える。しかし本当に頭のいい「思考力のある人」は必ずしもテンポの良い会話をしないという。続けて引用する。
本当に問題を根本から考える「思考力の高い人」は問題があるとまず関連情報を集めるという。それによって徐々に問題の全体像が明らかになり根本的な解決策に近づける。だからすぐに答えを出せないのだという。それに対してスピード感のある学生は次のような行動に出る。
就職面接のグループ討議でA4用紙2枚の課題を学生は渡される。そして10分で読むと討議が始まる。スピード感のある学生は、あまり時間をかけて真面目に課題を読まない。そのかわり自分の意見を言えそうなキーワードを探してそれに絡めて自分の意見を言う。そっちのほうがスピード感のある討議ができるからだ。しかし中には真面目に内容を読む学生もいるという。さらに引用する。
私自身この「遅い人」の典型例なのでこの個所は非常に実感としてよくわかる。スピード感のある人たちの意見を「すごいなあ・・」と思いながら聞いてそれらの情報を参考にしながら問題の根本に近づこうとする。大体このパターン。
しかしこのパターンの人は採用選考では評価されない。さらに引用する。
ある国や社会やコミュニティで理想とされる人材像から外れた人たちは自分の長所を捨ててしまう。採用選考でスピードのみが重視されるので、根本的解決を目指す「遅い人」は自分自身の長所を捨ててしまうという現象が発生しているという。しかしだからといって遅ければいいというわけではない。遅いだけの人もいる。遅くて物事の根本解決を目指す人を判別するのは困難である。さらに引用する。
要は「遅くて根本的解決を目指す人」の能力は、その人を観察しても外からはよくわからないというわけなのである。そのような人を判別するのは至難の業である。
スピード感のある学生と遅い学生は下の図で表せる。
この本は「遅い人」がどのようにして根本的解決を目指すかを非常に的確に表現している。私自身「遅い人」なので非常に共感する。しかしこの本の結論には反対である。この本は「遅い人」が重要で「スピード感のある人」は表面的で意味がないと結論している。しかしそれは現在の採用選考における「スピード礼賛」を否定して「遅い人礼賛」で置き換えているだけだ。ひとつの極端からもう一つの極端にぶれている。
実際には遅い人はスピード型の人たちの意見を聞いて「みんなすごいなあ・・」と思いながらそれらを参考にしながら根本的解決にたどり着く。要はスピード型の人たちの意見を参考にしているのである。遅い人ばかりになると参考にすべき意見が少なくなり問題は解決にたどり着かないかもしれない。私自身遅い人間なのでスピード型の人たちの意見が重要なのがよくわかる。
物事は陰と陽が交わるときに豊かさが生まれる。スピード型の人たちと遅い人たちが両方いるときに化学反応が生じ、物事はうまくいくと思われる。遅い人が重要だからと言ってスピード型の人たちを否定するのは、右の極から左の極に移動しているだけであり、悪い意味で日本的な結論になってしまう。
私は東大に入学したが、当時東大では前期入試と後期入試があった。前期は一般的な学力試験。後期は論文試験。私は前期。大学で衝撃を受けたのはひとつはゼミ。本格的な哲学のゼミを受けて、すごい世界だなと思った。
もうひとつは同期の学生。特に後期試験の人たち。論文で入学した人たち。学生は受験した試験内容でフィルタリングされる。後期の人たちは当然前期の入学者とは別の個性である。違う個性が交わることで化学反応が生じる。実際、深い思考力を持つ後期入学者と話すことで私自身の中で化学反応が生じたのを今でもはっきりと覚えている。
一時期ゆたぼんという中学に行かない少年が話題になった。ゆたぼんについては詳しく知らないが、中学に行かないという選択肢もいいのかもしれない。もちろん相当苦労するだろうし、正しい結果にならない可能性はある。もちろん私も誰も責任はとれない。
しかし小卒であることは既存の概念にとらわれないという長所もあるかもしれない。田中角栄についてそんなに詳しくないが、彼も小卒である。小卒の総理と東大法学部の官僚が連携するというのも、陰と陽の交わりの一つの例かもしれない。
お笑いコンビで小卒のひとと大卒のひとがコンビを組んでいる例もあるという。これもOR型をとり自分の短所を補う人と連携するというパターンのひとつである。
いずれにしても言いたいのは、スピード型の学生も遅くて根本的解決を目指す学生も両方必要だということである。スピード型の人と遅くて根本的解決を目指す人の両方が交わるときに大きな力が生まれる。
社会やコミュニティにおいて理想とされる人材像はあるし、あってもいいかもしれない。しかし悲劇なのは遅い学生がその長所を捨ててしまうように、否定的にみられる人が自分の長所を捨ててしまうことである。
たしかに能力には優劣がある。しかし個性には違いがあっても優劣はない。スピード型も遅い人もそれぞれ持ち味は違っても重要なのだと思う。個性をうまく生かす道を考えるべきだ。
DeNAの南場さんの『不格好経営』に次の言葉がある。
速い人と遅い人も恐らく両方が必要なのだと思われる。
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