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【雑記】酒神との再会

学生の時分、酒が与えてくれる霊感といったものを私は信じていました。シラフでは何時間もかけてうんうん唸って考えてもいっこうに筆の進まないレポートが、酒場で一杯引っかけながら考えると、すっと良い考えが浮かんだものです。酒場に万年筆、原稿用紙かレポート用紙、さらには分厚い哲学の洋書(たいていはKantのKritikかなにかでしたが、DescartesやAristotleのときもありました)を持ち込んでは、酔っ払って、紙に汚い字で筆を走らせる私。あのころは伸び放題の髪、口元や顎には髭をたくわえて、それでいて襟付きのシャツにジャケット、足元は年がら年中下駄、という、いまではチョット考えられないような異様な風体の学生でしたから、さだめしディオニュソス的な、近づきがたい雰囲気の男でしたろう。

そのディオニュソス的な若い男が、酒の酔いに霊感を得て瞳をらんらんと輝かせ、存在とは何であるかと云ったようなことを西洋語混じりに書きなぐっているのでした。思えばいろいろ飲んだものですが、東京の、学生か、ナンパ目的のバックパッカーの外人ばかりがいる安いチェーン店のブリティッシュパブに這入ってはきつめのラム酒ばかり舐めていたように記憶します。ときには、ボヘミアの若者たちにあやかってアブサンをあおったこともありました。串焼きを喰いながら、ホッピーに悪酔いしたこともありましたね。

あのころは、酒が霊感を与えてくれた。少なくとも、そう信じることができていたのです。酒に酔い、カウンターで老若男女問わず見知らぬ人びとと対話し、読み、考え、書いていました。それを「酒神と語らう」なぞと、いま思い出しても赤面もののことまで申しておりましたか。

髪の毛ばかりでなく、髭や鼻毛にまで白いものが混じり始めてしまったいまとなっては、外で飲む酒はもはや霊感を与えてくれるものではなくなったように私には思われます。それとも、齢を重ねた私自身に原因があるわけではないのでしょうか。時代が変わってしまったとか。確かに、若いひとがあまり酒を飲まない時代だそうですから、たとえ昨今流行の病魔が人類のもとを去って行っても、理想に燃えて天下国家を語るような若者を酒場に見かけることはありますまい。或いは、大学を出てからは東京を離れて、住む町が変わったせいでしょうか。それもあるのかもしれません。あのころはまわりに大学も、美術館や博物館も、単館物の作品ばかりを上映する頑固な映画館も、古風なカッフェも、劇団員や絵描きも詩人もいくらもありましたが、ここはもはやそんなものはほとんど見られない田舎町。客層も変われば、話の種も自ずと変わりましょう。

とにかく、店の雰囲気も、客層も肌に合わず、よし本を懐から取り出してみたところで下劣な痴れ者の酔っ払いにやかましく話しかけられて活字を追うことさえままならない。仕方なくリュウゼツランの蒸留酒をおごっておごられて、前後不覚。流行の病気のせいで飲食店が休業になっているのを機に、最近では家で飲むことにいたしましたが、これがなかなか好い。

第一に、外で飲むのより金がかかりません。酒と云って、ウチにはせいぜいコストコ辺りで買い求めた箱入りの五リットルの葡萄酒みたいな安酒しかありはしませんが、家族の者が買ってくるのでタダ同然に飲める。つまみもなにか冷蔵庫や戸棚にあるチーズだの干し肉だの、ありあわせでいい加減に済ませれば良し。

仕事帰りに(大体は日付が変わっています)、雨戸もカーテンも閉め切った室内。家族の者は寝静まっていて、部屋の蛍光灯もみんな消してしまいます。書斎代わりにしている机に向かい、机上の黄色っぽく変色した電気スタンドにだけ灯りをともして、気に入りの静かな音楽をかけます。それでもって安酒の盃をちびりちびりと傾けながら、手当たり次第に本を読むのです。江戸川乱歩や夢野久作がゾクゾクするような薄気味の悪い話を披露したかと思えば、哲人ローマ皇帝がカウンターに同席してくれて彼の独白に耳を傾ける。ツァラトゥストラがやってきて、超人について語る日もある。ポーが何とも色鮮やかな怪談を聞かせてくれる。ソクラテスとともに酒宴に興じる日もある。いったい、何と豪華なる酒席でありましょうか。

わが書斎は、理想の酒場だったのであります。

入れ替わり立ち代わりする同席の酒客らは、みな過去のひとか空想世界の者ばかり。書物という原始的な外部記憶装置につながれた霊たちが、酒を飲む私のもとに次々と立ち現れては消えていきます。そうしてそれを読んでいる私は、確かに霊と対話しているのであって、其処にはキット霊感というものが働いている。近頃はnoteに出会って、その霊感に任せてきょうのように駄文を書き散らす日もある。そのへんのソファかこたつにでも酒神が寝そべっていて、私のようすにふふんと満足げに鼻を鳴らしている。幸いにもそういう感じがするのです。

夢の如き甘美なる時間。

生きているひとたちと昼間に話をするのは、深夜に儚げな音楽とともに鑑賞する霊たちの囁きに比べれば何と退屈なのでしょう。比較にもなりはしない。こうして、私は人間嫌いの偏屈な親爺になっていくのでしょう。それでも仕方がない。いったん見失ったはずの酒神はそこに居て、私が酔い、狂うのを今夜も見張っているのですから。

うつし世はゆめ よるの夢こそまこと

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