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子どもへの接し方について、正解はないかもしれないけど、不正解はある。

最近ずっと気になっていることとして、

「発達障害であれば配慮するけど、そうでなければ配慮はしません」

という言葉に対する違和感がある。

これって、例えば、「発達障害」という診断がつけば、その子の苦手なこと(例えば、自分から集団に入っていくとか、挨拶ができないとか、興味のない話にも関心を向けるとか)に対して、周囲の環境を整えたり、接し方を変えたりといった対応をするけど、診断がつかなければそうはしませんよ(=甘えんな)ってことで、発達障害傾向があるのに診断ついてない子にはもちろんしんどいし、仮に診断ついてなくて、傾向が薄い子にもしんどい。
で、更にいうと、傾向がなくても、不得意な分野がある子にとってもしんどい。
なんというか、この考え方でやっていこうとすると、適応できた人にはやりやすいのかもしれないけど、適応できない子にはすごく苦痛が続くことになって、実際は全然教育上効果がないことが多い(と思う)。

それなのに、未だに、「できないは甘え」「甘やかすな」みたいな言説がまことしやかに囁かれていることによって、そして、そういう価値観を内面化したままアップデートされていない教育者が教育業界の中枢や上層にいることによって、当の子どもたちが苦労している、というふうに私は現在の環境を見て感じている

もちろん、そういう年配の人たちがいないと、できないこともある。
が、それは例えば、中枢や上層にいるがゆえの横の繋がりによる物事の進め方をスムーズにすることだったり、予算化を進めたりといった、正直、政治に関わる部分であることが多い。
それ以外の、現代の子供と接する機会においては、そういう年配の人たちの配慮の無さや価値観の遅れは、むしろ逆効果だと感じる

とまあ、愚痴になったが、今日の私はものすごく愚痴を言いたいのである。

何しろ、私が1年近くかけて、取り組んできた子どもへの働きかけが、最近になってようやく実を結び始めたかな、本当に嬉しいな、と思っていた矢先に、「そこまでベッタリ手をかけなくていいから」と言われたのだ

マジでショックでしかない。

いや、私の働きかけの、どこ見てそんなふうに言ってるんですか…?
本当にこの言葉は堪えた。
なにせ、私がなぜその子どものそばにいて常にケアできるように控えていたのかの背後の理由も見ていないし、常にべったりしていたわけではなく、むしろ子供の方から自発的に私に話しかけたいというモチベーションを持てるようになってきたために私が話しかけるということはもう最近ではほぼなかったというのに、だ。
そういうところを一つも見ていないのに、何で私のやり方がおかしい、みたいに言われないといけないのか。

というか、ベッタリって何…?
その言葉の意味もわからないし、批判するなら、私の行動のどの部分がその子にとって効果的でないのか、理由も合わせて説明してほしい。
その理由が明確でないから、正直、働きかけをもっと効果的にするためのすり合わせもできなくてこちらもストレスが溜まるし、結局、その人が考える効果的なやり方も効果を出せてない、と感じる

なんだろうな、やっぱり、組織のトップに立ってきた男性というのは、加齢もあるのだろうが、自分のやり方・経験にやたらと自信を持ってしまっていて、そこをアンラーニングする必要を感じていない人がすごく多い気がする。
正直、価値観をアップデートするなり、もう少しまともに議論する時間を作るなり、私のやり方を横で見ていて具体的に批判するなりしてくれれば、まだ対話の価値もある、と思うのだが、そうでもないからなあ。

とはいえ、その人と合わないからやめる、みたいなことを繰り返していると、これまでと同じような経路しか辿れないし、多分、この「合わないのですぐ自分がやめがち」というのは専門家に相談すべき自分の特性なんだろうな…。
発達障害を調べるほど、過去の自分や、現在の自分にも当てはまるところが多くて、正直、子どもに対して気がかりな部分もあるけど、なにより自分がこれやん…!と思うので、自分でもかなりの生きづらさを感じてきたわけで、そんな思いを子どもには絶対させたくない……!と強く思ってしまうのだった。

あと、教育というか、子供と関わる上で大事なことの一つに、「この人といると楽しい」と思ってもらうことがあるなー、と思っている。
私は、これまで子供と関わるときには、常に「楽しい、心地よい」と感じてもらえるような接し方をしてきたつもりで、子どもからの反応や、自己開示の情報を振り返っても、あながち間違った接し方だとは思えない。
やっぱり、人間だから、楽しかったり心地よかったりした方に絶対惹かれるはずで、子どもに接する大人だったら、そういうポジティブな経験をたくさん子どもに提供できる人間でありたいし、一緒に楽しい経験をたくさん積みたいそれが結局は、子どもの前向きなモチベーションを一番に引き出すことだと思うから

なんというか、そういう「楽しい」とか「心地よい」とかの感情を後回しにする考え方が未だに残ってるなあ、というのが私が嫌だなあ、と思う教育現場の価値観で、それがなかったら、正直もっと教育現場も、不登校支援の現場も、子どもと一緒に「楽しむ」場所として機能して、より前向きなモチベーションやチャレンジがたくさんできる環境になると思うんだけどなあ。

私としては、自分がいる環境においては、そうやって「楽しい」「心地よい」と感じられる環境を作ることで、心理的な安心感や安全性を担保して、批判されずにチャレンジが行え、失敗しても大丈夫、やってみようと思える前向きなモチベーションが内発的に湧いてくる、という状態を子どもには作りたいわけで、そういうのを目指してるんだけど、人から見たら、こういうのって甘く見えるのかなあ。

なんというか、本当はこういう根本的な部分を、今働いている先生とも話し合いたいと思うんだけど、そこらへんはまだまだできてないもんなあ…。
まあでも諦めずに、なんとか挑戦していきたいなあとは思うよ。
だってそうすることが、今いる子どもたちのためにもなると思うから。

根本的に、なぜそうするのか?という問いには、「今いる子どもたちに楽しく、心地よく過ごしてもらって、前向きなモチベーションを育てていくため」という答えになると思うんだよなあ。
管理・統制的なやり方では、そういう子どもの自由闊達なモチベーションて育たないと思うし、当の子どもも枠にはめられるのは楽しくないと思う。

より子どもにとって安心・安全性の高い空間を担保して、子供の権利主張の重要性も理解して、でもどんな人でも来れるように安価なフリースクール、というのが、あれば行きたいし、なければ作りたい。

そういうのが、なんとなくの、今の自分の目標なんだなー、と思った。

子どもに対する正解は、たしかにないんだけど、でも、絶対やったらダメな不正解はあるんだよ。
大声で怒鳴る、理由をきちんと説明せずに怒る・強制する、が、その最たるもので、これは絶対にやっちゃダメ
これをやらないということ聞かない、と言うんだったら、それはその子どもからの信頼感がその大人に対してないからだと思う。
信頼感が根底にあれば、きちんと話をする機会も持てるし、怒鳴らなくても理由を説明すれば会話もできる。
それができないのは、子どもが悪いからではなくて、大人側の接し方が悪いせいでは?と、自省できる大人がもっと増えてほしい。

大人の考えているやり方が、すべての正解ではない。

もちろん、自省を込めて。

なんとか、今の職場でももう少し腹を割った価値観の議論ができればいいんだけどな~~~!


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