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預念

ナレ:彼女は、哀しげな目を向けながら言った。

美知恵:「あなたには、理解できないと思います。
     そう、若いあなたには。
     覚えておきたいことや、大切な思い出、
     そうしたものが指の間から
     砂がこぼれるように消えていくのです。
     その恐ろしさがわかりますか?
     知っていた人の顔さえ、
     次々に忘れていくのです。
     いつか、きっと、あなたのことも
     忘れてしまうのでしょう。
     それどころか、忘れたという自覚さえ
     なくなるのです。
     それが、どれほど悲しいか、
     そして、辛いか、
     あなたに分かりますか?」

ナレ:  彼女は、そう綴った。
     そう、彼女は初期の認知症を
     患っていたのだ。
    医師からも、そのように診断されている。
    先日、交わした約束を忘れていて
    その記憶さえない自分に
    気付いたときさえ
    うろたえることは、なかったのだが
    成人して、まだ、間もない
    目の前の若者に、その事実を
    見透かされたときは、
    ショックをかくせなかった。

    普段は、目の前の若者に接するときは
    叱るか、注意するような
    対応しかしておらず
    言葉を替えれば、
   「上から目線」でしか
    接することがなかった
    彼も、自分に対しては
    一線を引いてたはずだ。

    その彼が、いま、
    自分を追い抜こうとしている。
    その彼が、いま、私を、
    助けようとしている。
    いつの間に、これほど、
    たくましくなったのだろう。
    何が、これほど、
    彼をたくましくさせたのか。

美知恵、心のなかで:
      「そうか、彼女の存在ね。」

 ナレ:心のなかで、
   彼女の顔を思い浮かべていた。
   彼女のために尽くした時間が
   彼を、ここまでたくましくさせて
   そして、いま、真理を
   つかもうとしている。

   彼は、ぽつりとつぶやきながら
   ささやいた。

トキオ:「たしかに、俺にはわかりません。
    しかし、それが、どんな世界なのか、
    あなただって、まだ、わからないですよね?
    忘れたという自覚さえないのなら、
    そこは、絶望の世界なんかじゃない。
    まったく、べつの角度から
    置きかえれば
    それは、新しい世界です。
    次々にデータが消えるのなら、
    新しいデータを書き込んでいけば
    いいのではないでしょうか?
    明日の、あなたは、
    今日のあなたではないかも知れない。
    だけど、それでも、いいと思うのです。
    俺は、受け入れます。
   明日のあなたを、受け入れます。
   それでは、いけませんか?」

トキオ:「忘れてしまうのなら、
     新しく、想い出を創ればよい。」

    素直に、そのように思った。

    いままでは、気丈で
    叱られてばかりいたが
    なぜか、いまは憎めない。

   逆に、温もりさえ感じる。

   初めて見せる「弱さ」を
   おれは、受け入れたいと思った。

   彼女は、目を瞬きさせたあと
   じっと、俺の方を見つめてきた。
   やがて、その重い唇を開くと

美知恵:「いま、私が、
   何を考えているか分かりますか?」

トキオ:「いや、分かりません。」
    「どんなことですか?」

美知恵:「あなたの、お母さんのことを
    羨ましいと思ったのです。」
   「心のそこから、羨ましいと・・・・。」

トキオ:「えっ?どうしてですか?」

美知恵:「短い年月だったとはいえ、
    これほど、素晴らしい心を持った
    息子さんと時を同じく過ごせていたなんて」
    「どこまでも、充実した生活を
     送れていたんだろう。って。」

トキオ:「いや、それは・・・・。」

美知恵:「湿っぽい話になってしまいましたね。」
     ・・・・
    「彼女とは、上手くいってるの?」

 トキオ:おれは、少しばかり、意表を突かれた。
    まさか、ここで、彼女の話題が出るなんて
   「いや、まだ、告白さえしてないんです。」

美知恵:「だめじゃない。」

トキオ:「いや、おれ、まだ、半人前だし。」

美知恵:「ばかね、そんなこと言ってたら、
    いつまで経っても、
    彼女なんて出来ないわよ。」
    「人なんて、いつまでも、半人前なの」
    「私だって、いまだに半人前。」
    「みんな、そうなのよ。
      だから、助け合って生きてるの。」
    「人の気持ちなんて、
        永遠じゃないから。」
    「特に、男女の気持ちなんて、
     はかないもの」
    「彼女だって、半人前なの。」
    「結論はね、いっしょに
       成長していけばいいのよ。」

トキオ:口には、しなかったが、心のなかで
   「なるほど!」
    っと思った。

   「そっか、人は、
     永遠に半人前なんですね。」
   「ぼくは、少し、
     思い上がっていたのかも知れません。」

美知恵:「分かっていただけたようですね。」
    「ところで・・・・。」
    「ひとつ、聞いてもいいかしら?」

トキオ:「なんですか?」

美知恵:「わたしは、もう少し
      生きていてもいいのかしら?」
    「わたしに、その価値は
       あるのでしょうか?」

トキオ:おれは、その突拍子もない台詞に対して
    なんて答えたらいいか分からなかった。

    ただ・・・・・・。

    咄嗟に、おれの右手は
    彼女の手を握りしめていた。

トキオ:「この手を通じて、
      おれの気持ちが伝わってますか?」
    「言葉にしなくてもいい。」
    「いや、言葉にしない方が
      おれの正直な気持ちは
       伝わると思うんです。」
    「頭で、考えないでください。」
    「そして、それを、
      受け止めてください。」
    「それが、これからの、
      生きる活力になるはずです。」

美知恵:「ありがとう。」
    彼女は、心の底から、
    そのように感じていた。

ナレ:そして、ポケットに
   持っていた白い粉の入った瓶を
   海へ投げ捨てた・・・・。

美知恵:「彼を、引き取って良かった         わ・・・・。」

トキオ:そして、おれも、彼女の手を通じて
    その気持ちを受け止めていた・・・・。


あとがき

書き始めたときは、これほど長く語るつもりはありませんでした。
当初は、読み終えた小説があって
言葉を変えて、簡単に紹介したかっただけで
何と言うか、いま、社会問題になっている
認知症について
ひとつのヒントになるのではないかと思い、
その小説の一幕を引用しながら
みなさんの活力になればと思って
書き始めたのですが、
あれよ、あれよ、と言う間に
手前勝手に創作してしまい
ここまで書き綴ってしまいました。

ただ、読み終えて思ったのが
記憶が消えていくのなら、
新しく創ればよいということ。
そして、人は、だれかの支えなくては
生きていけないということ。
そして、時には、人の気持ちというものは
言葉では、伝えきれないものであるということ

そんなことを感じたまでです。

そのことを伝えたくて
ここに、ひとつ
気持ちを残していきました。
これを、預念と呼べばいいのかな?

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