見出し画像

Happiness Project #1-Phone Usage


スマホの目覚ましに起こされ、通知を見る。ブルーライトで目を覚ましつつラインに返信し、インスタ、Twitterの新しい投稿を一通り確認する。目は覚めたが、体が起きたような気がしない。顔を洗い、少し気分がスッキリする。そして朝ごはんを食べながらYoutubeで動画を見る。体がやっと起きてきたので、イヤホンをつけ、音楽を聴きつつ出発の準備をする。

電車に乗る、スマホを見る。電車の中ですることなんてない、どうせ周りを見てもみんなスマホを見ているだけだ。あまり深く考えず、自分もその集団の一部となる。スマホを見るのが特に面白いわけではないが、混んでいる朝の電車でボーッと立っているよりはよっぽどマシだ。

降車駅に着く。スマホを見つつ列車を降りようとすると、人にぶつかりそうになる。向こうも画面に気を取られているようだったので、とりあえずお互いあまり気にせずに、イヤホンで音楽を聴きながら目的地へと向かう。

通知やその他アプリに時折集中力を削がれつつも、一日のタスクをこなす。作業がひと段落つくと、スマホを確認する。たまには動画も見たりする。人との交流は少し減るが、まあ自分の時間も悪くない。そして仕事なり学校なりが終わる。

健康のためにジムに寄ってみることにする。ジムに来ている人たちは、一緒に来ている人がいない限りみんなイヤホンをつけている。自分も特にジム仲間なんていないので、イヤホンをつける。たまにはためになることを、と思い、ポッドキャストを聞いてみる。ジムの機械に座ったままずっとスマホをいじっている人に苛立ちつつも、機械が空くのを待つ。ポッドキャストもなかなか面白い。勉強になるものだ。

運動が終わる。スッキリする。そして家に戻る。夕食を食べつつ、またyoutubeを見る。なんだかんだ溜まった疲れがどっと押し寄せ、ソファーで横になり、SNSに身を任せる。10時、11時くらいにふと我に返り、いくつかやらねばならないことをこなす。そして寝る前にまたベッドでスマホをいじり、眠くなるまで画面を見続ける。

そして、気づいたら朝になっている。


若干誇張したかもしれない。いや、誇張なのだろうか。スマホと共に育った若い世代の中には、実際にこんな一日を過ごしている人もいるのだろう。

自分自身もこの状況を人ごとにはできない。小学五年生にしてipadを手にして以来、私自身もスクリーンタイムを減らすことに苦戦している。最近はスマホを見る時間を一日一時間内に制限しようとしているのだが、毎日なぜか十分から三十分ほど超えてしまう。ライン以外のSNSはそもそも持っていないにも関わらず、遠くにいる友達と頻繁にテキストメッセージで連絡を取り合っていると、一時間なんていとも簡単に越してしまう。どうしたものか。


我々は、ふとした時に「明日の予定」、「昨日の過ち」など、自己に関わる反省やプランニングを無意識的にしがちである。進化論的に考えれば、それは「計略的な暇の活かし方によって、進化におけるアドバンテージを得るため」だったのかもしれない。

そのため、心があちらこちらにうろつくことは、特になんらかの「幸福感」をもたらすわけではない。「自己」を中心に置いた計略的な神経回路の活性化(DMNともいうらしい)が、特に長期的な「満足感」や「安定感」をもたらすはずは到底なく、むしろ不安や反省などの負の感情を呼び起こしやすいからである。

暇時間にスマホを見ることは、短期的にはこの心のうろつきをとめてくれるのだが、長期的に見れば逆効果になるだけだ。結局は画面外の世界での一瞬一瞬を観想的にすごせばいいものの、スマホやコンピューターなどのスクリーンによって、我々はデジタルの世界に閉じ込められる。デジタルの世界は我々の脳の報酬回路を過度に活性化させ、それをデフォルト状態することによって、日常生活の小さな喜びも感じづらくさせていく。

一口一口の味わいに浸って食べていたご飯も、Youtubeを見ながら食べた途端、ただの動画のお供と化す。散歩、運動、食事、学び、会話、休息… これら全ての、心に安静をもたらす、日常の一つ一つの喜びが集中できないものになっていくと、我々は余計スクリーンなしでは生きれなくなる。スクリーンのない世界なんてつまらない、不安を煽ってくるような世界でしかないからだ。


お茶を飲むときの一口一口の味、温度、匂い。
階段を登る際の、一段一段の地面との接触、筋肉の稼動、体温の変化、心拍の上昇。
人と話すときの相手の表情、言葉の使い方、トーン、会話のリズム、受け取る感情。
ベッドに横たわったときの筋肉の弛緩、呼吸の鎮弱、体がベッドに沈み、休息の準備ができた体の合図。

こういった一瞬一瞬の観想が、如何に我々の人生を豊かにしてくれることだろうか。盲目に、快楽ばかりを求めてスクリーンに囚われ、日常にありふれたいろいろな感覚に目を向けず、ただただ高刺激を無限に与えるインターネットに時間ばかり奪われ人生を終えるのは、果たして価値のある人生なのだろうか?


SNSやインターネットは便利である。テクノロジーに使用されず、テクノロジーを使用するのが理想である。しかし、現実はそうも簡単にはいかない。やはり、インターネットというものはあくまでもビジネスを前提とした製品だ。ほぼ大体の確率で、テクノロジーを使用しているつもりの私たちは、結局テクノロジーに消費されているのである。

全てを「テクノロジー」のせいにしたいわけではない、そんな短絡的な還元主義のようなことを言いたいわけではない。ただ、我々を依存させるために作られた大部分の「インターネット」という存在との「共存」、という希望はどうしてもあくまで理想論に留まってしまうと思う。やはり、結局インターネットの「消費」がいかに自分の生活において破壊的であるのか知ることは、結局はインターネットから置けるだけの距離を置くことから始まるのだと思う(断ち切る、わけでもないが)。












この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?