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「嫌いなあの人」に自分の幸福までも左右されるな


何かを「持つこと」に対する欲求は単純明快でわかりやすい。

自分のことを大切にしてくれる良いパートナー、素直で優秀な子供。

気の合う良い友人、仲の良い同僚、部下思いの良い上司。

理想の新築一軒家、ずっと欲しかった車、給料が高くて待遇の良い仕事、一生働かなくて良いだけの資産。

これさえ「持っていれば」あるいは「持っていなければ」幸せになれるのに・・・。

そう思うモノを、人間誰しもいくつか抱えて生きている。


しかし、果たして何かを持つことや持たないことで、私たちは本当に幸福に、あるいは不幸になるのだろうか?


もっと良い仕事を持っていたら・・・。もっとたくさんのお金があれば・・・。もっと理解ある上司であったなら・・・。もっとパートナーに理解があれば・・・。



『◯◯が◯◯でさえあったなら、幸福になれるのに』


こういった考えは、「自分の意志次第でない外部のこと」に人生を支配されたことを自ら認めたことにならないだろうか?


例えば、嫌いな人のせいで幸福を全く感じられない毎日を送っているとする。

では、自分の幸福は、嫌いなあの人の振る舞いによってのみ決められてしまうのだろうか?

いつの間に自分の人生のハンドルでさえも、その嫌いなあの人に明け渡してしまったのだろうか?


もちろん言いたいことはわかる。嫌なものは嫌だ。そう感じる自分の感情、すなわち情念は止められない。地下から吹き出す間欠泉のように、嫌だという感情は内側から一気に吹き出してきてしまう。

しかし、それに抗うのは自分の意志次第のことではないだろうか。理性によって感情をコントロールし、嫌なことに対する反応を選択することは本当に出来ないのだろうか。

そもそも私たちは嫌いな他人が取る行動に影響を与えることは出来ても、その結果を選ぶことは出来ない。

例えば高圧的な上司に「もっと思いやりのある態度をお願いします」と伝えて影響を与えようとすることは出来ても、その結果を私たちは選ぶことはできない。

私たちが唯一変えることが出来るのは、現在の私たちの意志、つまりは理性だけだ。


外からの刺激に対し、反応を選択することが出来るのは理性がある証拠だ。


外部からの嫌な刺激に対して、沸き上がる情念に振り回されたままであることも選択出来る。


しかし、理性を駆使して情念をコントロールし、私たちは自分の意志次第で「幸福である」ことだって選択できる。人生のハンドル、つまり幸福であることの主導権を「嫌いなあの人」から取り返すのだ。


私は「何かを持つこと」に依存し、その刺激次第で幸福が左右される人生より、どれだけ難しくても自分の意志次第で「幸福であること」を選択したい。


何かを「持つこと」より大切なことは、自分がこれから「どうあるか」だけなのだから。

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