コラム

⭐〈ノルウェーの森〉にわけ入って
            (その2)
「ノルウェーの森」の舞台となった1969年は、70年安保の前年で、全国の大学生たちを巻き込みながら、日本の学生運動は、これから苛烈になっていく。世界は、アメリカとソ連との二極化構造で、世界の各国も、単独の国内でも、大局に立てば保守、革新のそれぞれの勢力が、これら2大大国の代理闘争をやっているようなある意味陳腐な現実の印象がある一方、これから将来を背負っていこうとする一部の若者たちから、口々に強烈なノンが発せられ、革命、闘争、粉砕などという二字熟語が、何かことあるごとにシュプレヒコールの中を飛び交っていた。二極化と言いながら、ソ連の若者たちの姿はほとんど見えず、アメリカの若者たちも、1955年開戦のベトナム戦争の出口が見えないためか、少なからず疲弊し、退役軍人の若者の1人が、ミセスロビンソンの娘と駆け落ちし、長距離バスでアメリカを探す旅に出た、なんて映画もヒットした。若く脚力のあるダスティン-ホフマンも可憐なキャサリン-ロスもクールでアンニュイなアン・バンクロフトも、銀幕の中で生き生きと輝いて見えた。翌年の1970年にはすんなりと日米安保条約が、国会を通過し、三島由紀夫が盾の会を率いて、市ヶ谷の自衛隊に突入し、いよいよぬるま湯化する日本社会を見越したように、その鍛え上げた肉体の腹筋を自ら切断し果ててみせた。
その三年後の1973年には浅間山荘事件が、左翼学生運動の最後の修羅場を全国に公開し、捜査が進む中、妙義山などでの連合赤軍の凄惨なリンチ事件の実態が明るみに出ることになる。
村上春樹のデビューした1980年代前半は、日本の社会から上記のいろんな混乱が影を潜め、ほんとうにただ風が吹いているだけだったのだ。群像誌上で『風の唄を聴け』を読んだとき、いまそのような社会状況であるそのことを宣言しただけでも、この作家のセンスと感性は、賞揚されるべきなのだ、と確信した。その言葉のどんな意味においても穏健で清潔で平和で豊かな社会になりつつあった。ボブ・ディランが『スロートレインカミング』を唄う。(時代という)汽車がいま大きな曲がり角をやって来るんだ、と。ベトナム戦争を終結させたアメリカが、世界の中で力をため、ソ連を追い落とし世界の中心にその座を持ちつつあった。
 わたしは、小説の舞台と読まれた時代のギャップが、村上春樹の小説世界の基本的構造を支えていると考えているものだ。
なぜ、小説の主要な登場人物たちは生きていけないような負荷をかけられているのかは、この2つの異質な世界を作者が往還してしか、物語をつむげないからだ、とわたしはそう思っている。
 少し格好良く言わせてもらうなら、このように深い深い闇の底に降りてまで、創作の材料を拾いあげてこざるを得ないのは、村上春樹という作家の果てしない苦行のように思えてならない。

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