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泣かない、んじゃなくて、泣けない。

(筆者:しんぺい)

最近の、今の、令和を生きる、私たちは泣けなくなってきてる気がする。どうしようもなく、感情がぐちゃぐちゃになったり、殺したくなるくらい誰かを憎んだり、もう死んでもいいってくらい幸せな気持ちを抱いたり、そういうのがあまりない気がする。

本当はそうしたい

喜怒哀楽の100%を使って毎日送りたいとは誰しも思ってると思う。でもそれができないのが現状で、どうしてもう少し感情を表に出せないんだろうって思うときがある。

ちょっとしたことでクスッと音を立てて笑いたいし、悲しいことがあったら顔をくちゃくちゃにして泣きたい、「美味しい!」って眉を上げたり、「もう、遅いなあ...」って眉を顰めたい。そんくらい、「ああ今自分ってこんな感情なんだな」って自分すら自分に気付く生き方をしたい。

多分それって...

今の生き方の表れなんだと思う。昭和や平成はみんながみんな集団になって、輪になって、ちゃんと顔を向け合って、感情を共有してた記憶が強い(平成生まれだが)。何かあればすぐに伝えて、みんなでそれを考える。そうしてたから、色々な感情を身に纏えてたんじゃないかな。ふとたまに、小学生の記憶を思い出す。ハワイに家族旅行に行ったときに、歩き疲れて父に抱きついたまま寝てしまって、現地のカメラマンに無理やり起こされたときは、無性にイライラして、小学2年生ながらに寝たふりをかましてやった。その顔は多分険しくて、感情をモロに出してた(出てしまっていた)んだと思う。そうやってストレートに生きるのって今の時代案外難しい。

令和は、”集団行動”をあまり取らなくなった気がする。コロナ禍によるオンライン化で1人でいることが多くなり、”日本人特有の無個性”とか勝手に謳われて、それに反発するかのように私は自分の個性を出すふりをしている。それもあってか、あまり集団で群れず、他人と違うことが”正義”かのように感じて、自分の”ナワバリ”みたいなものを意識し始めている。特に外にいるときは、他人と自分との境界線が視界に映るかのように鮮明で、その中にいるときはほとんど無表情である。

見て見ぬフリの私たち

外を歩いているときに変な人がいたら真顔で通り抜けるし、なんかハプニングがあってもとにかく目を瞑ってスルー。これは昔からかもしれないけど、でもやっぱり、どこかそんな自分の心に”冷たさ”みたいなものを感じるときがある。もう少し、人間味溢れた毎日を過ごしていれば、充実感を感じて眠りにつくことができるのかしらとも思う。

オーバーに生きてみよう

この解決策は今の所正しくはわからないが、ちょっとばかし感情をオーバーに出してみることにしよう。ニヤっとなるときにガハハと笑ってみよう。そんな自分を創り出してみようと思う。

自分が10代の頃は、感情で生きている人に対して「オーバーリアクションだろ」とか「うるさいな」とか斜に構えていたが、一回その人たちの真似をしてみることも悪くないのかもしれない。

とりあえず、今の環境に満足いかないなら、自分から何かを変えるしかない。
他人と過去は変わってくれないが、自分と未来は変えられる。
大丈夫、私ならやれる。

今を生きてみます。

それでは、また。

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