2つの感覚 ただしさの不在
手をあらう必要がある、そのレベルは、人によってぜんぜんちがう。
よごれがついてても気にしない人もいるし、なにもしてないのに洗いつづける人もいる。その差異は長大なグラデーション。
どの点が最適、という種類のものではない。よごれが気にならない人は、ほんとうに気にしていない。気になる人は、ほんとうに気にしている。
そしてそれぞれの認識は、他人もまた、自分とおなじように感じている、というふうに世界をとらえている。だから、「あの人、手洗えばいいのに」「あの人、手洗いすぎじゃない?」と思う。
自分基準はぜったいなのだ。
まわりの人が全員、自分とちがう、ある点のよごれ具合で手をあらうとしても。まわりに合わせる・合わせないの問題ではないのだ。
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体感温度、まぶしさ、味覚……人によりけりな感覚はたくさんあるけれど、「手をあらう」ことに関していえば、ステロイド投薬が大量だったころ、わたしは「よごれの気にならない人間」側だった。
投薬のへった今になって、その差がはじめてわかる。当時はその感覚の変化が投薬のせいだなんて考えもしないから、心境の変化か、年齢をかさねてオバサン力がついたか、長期入院で寛容になったとか、はたまた28年に一度おとずれる宿曜のカルマの年だから、とか、占星術の天中殺だとか、てきとうな理屈をつけて納得していた。この感覚のまま、のこりの人生を生きていくものと思っていた。
ここ。「この感覚のまま、残りの人生を、生きていく」ものと思っていた。それは、ちがった!
いくら治療したからって、わたし程度の投薬治療で、遺伝子そのものが変化するわけじゃない(テロメアとか、少しは影響あるかもしれないけど)。つまり、脳細胞のならびかたが変わったり、それによって脳の働きに変化が起こったり、したわけじゃない。
感覚は、遺伝子によって構築されるものではない、ということだろうか……?
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遺伝子は、身体のあらゆるものを規定している。遺伝子という設計図を参照してアミノ酸の配列がきまり、臓器や器官がつくられる。その臓器や器官がホルモンを分泌する……と考えると、感覚をきめている最高司令官は、けっきょく遺伝子だということになるか。
考えてみれば、遺伝子だけではうまく機能しない体の部位を、薬によってフォローしよう、ということは昔からふつうにおこなわれてきた。胃の調子がわるければ胃薬をのみ、頭痛がすれば頭痛薬をのむ。薬をのんだって遺伝子が変わるわけじゃないけど、効果がある。
それらの場合は、具合がわるくて「困っている」から、「正常な状態」にするために、薬をつかう。
「手を洗わない」「洗いすぎ」のために、薬をのむという人は、私のまわりにはいなかった。これは新鮮な感覚だった。
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自分の感覚はぜったいだと誰もが思っている。周囲に「それはちがうよ」と指摘されると、不安になる。自分は変わってる人間なのだろうか、と疑う。しかし、疑ったところで状況はなにも変わらない。自分の感覚は、自分の意志のおよばないところから発信されて、こちらに伝わる。
直すことはできない。「直す」という発想が不適切なくらい、「感覚」というのは、単独でそこに在り、そこで機能している。
「そこ」も「こちら」も、いったいどこにあるっていうんだ。
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「この程度の行動では、ついこの間まで、手なんか洗わなかったんだから」
そう思って洗わずにいてみると、ほかの作業をしていても、手がよごれているんじゃないかと気になってしかたない。洗わなかったという記憶が、あたまの片隅でよわいパルスを間断なく発信しつづけてくる感じ。
感覚は変えられてしまった。いや、戻ったにすぎない。私はこの感覚とともに、これから先の人生をあゆんでいくのだろう。
よごれを気にしなかったあの頃は、ラクだったなあ、という記憶もまた、引きずって連れていくんだろう。
そんな人生の教訓を得た、天中殺の今年。
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