上野

世界をキャッチ 便利な時代においても このノウハウだけは共有不可です

クラシック音楽をひんぱんに聴くほうじゃないけれど、コンサートに誘われる機会がたてつづき、急に、とあるチェリストと知りあった。

練習中に、チェロの例の曲(バッハ 無伴奏チェロ組曲 https://www.youtube.com/watch?v=mGQLXRTl3Z0&list=PLGgBZqyNcp-bLdU9dF33CQfOzOysR4WTQ

わたしはこの曲以外、チェロだけで演奏する曲を知らない)を弾いて、とお願いしてみたところ、聴かせてくれた。

一音一音がならされ、流れていくのを、動画なんかで聴くときよりもずっと丁寧に、しっかり聴こうと思った。彼女の貴重な時間を、わたしにくれているのだから、と思って。

有名な曲だから、つい耳が、フレーズごとに、音をとらえようとする。それを無理やりにやめさせて、一音をしっかり聴いて、つぎにいく。

チェロは、こんな音色を奏でていたんだ。

はじめて聴いたような感覚は、聴き方の差異によってうまれたものだ。いつものとおりに聴いていたら、いつものとおりの、ふつうな感じに聴こえただろう。なんせ、わたしは、クラシックをCDを借りたり買ったりしてまで敢えて聴くような趣味を持っていない人間だから。能動的に聴きにいくなら、ジャズ。

そもそも、なにかを意識せず、自然体で聴いていた結果が、この、クラシックはふつう程度に好きで、ジャズはしっかり好き、という好みの決定につながっている。ようは、耳のつかいかたについて、自然体である、という状態。

その曲を、どこで区切るか。音を、どのくらいの大きさの、あるいは単数複数の塊として、耳にいれていくか。それを、どんなふうに脳でキャッチしていくか。

そんなことは、もちろん、耳が稼働しているときに意識したりはしない。音が耳にはいってきた瞬間、わたしたちはこれを、「世界だ」と認識する。それから、その「世界」という概念は、「自己」と双極をなす概念だと直感する。

自分や他人、多くの人間にそれぞれの自己がある、ということを認識することで、「『自己』の集合 vs『世界』」という構図を導きだす。

つまり、世界のことを正確につかめるかどうかは別として、

世界は、とある一の存在として存在し、それぞれの人間(自己)は、その絶対的な一の存在を、傍から、自身の感覚器官をつうじてキャッチしている

と、わたしたちは信じている。こちらが主体的に動かないかぎり、世界はそのかたちを変えたりはしないし、あるいは、あるがままに姿を変えていったりし、時にはこちらがどんなに努力してもびくともしない、ということもある。

コンサートが終わったあと「いい演奏だったねえ」と感想を共有しようとするのは、「自分がいま聴いたその演奏は、となりのあなたもそっくりそのまま聴いたでしょ」という認識が、確かに存在している証である。けれど、

そんな保証はどこにもない。

目の前でチェロの弦がふるえている。音とは、振動のことだから、そこでなんらかの音が発生したことは、見た目にはたしかだ(ただし、視覚だって感覚器官のひとつだから、この類の証明は絶望的になってくる)。しかし、その振動のことを「わたしの耳が捉えたときの、わたしが感じた感覚」と「あなたの耳が捉えたときの、あなたが感じた感覚」とが、おなじであるとは、

おなじでないとは言いきれない。その幸福感(あるいは絶望感)と同じレベルで、おなじであるとも、言いきれないのである。

「感覚器官のちがい」は、あなたとわたしを隔てる、最大の壁かもしれない。

最初、なにもできないわけじゃないのだ。人間は、うまれたときからできることが、いろいろある。泣く、声をだす、動く。それから、育つうちに、様々なことを覚え、できるようになる。

だからといって、当初からできたことを学びなおすことは、あまりしない。

つまり、ただしい泣き方、ただしいダダのこね方、なんかを、人に習ったり、人の見本をみて真似してみたりは、しない。そっちの方が効果的、ってときは、やってみるかもしれない。

最初からできることは、あらためて習わない。

だから、音の聴き方、ものの見方(視力としての)、触り方なども、あえて変えることはなく、いうなれば生まれたときにやっていた方法で、ものを聴いたり見たり触ったり、しているのである。

習えば、ほかの感じ方が、あるかも。

習わないからこそ、自分だけの、感じかたで、感じているのかも。

どちらがいい、という問題ではない。

そもそも、自分と、他人で、感じ方をくらべることすら、わたしたちにはできない。

自分の感じかたで感じ、それからそれを、べつの音楽や、文章や、ほかの作品としてアウトプットする。すると、「こんな感じ方はしらなかった」と、他人におどろきを得させることができる。

もしおなじ感じ方を、自分と他人とでしているとしたら? 実際におなじでなくてもいい。「おなじだ」「おなじかもしれない」という感覚をいだくだけでいい。勘違いでも、いいのだ。

その感覚の共有は、「自己の集合」対「世界」の構図をうみだして、世界がひとつであり、自己と対峙する存在であることを、実感させる。

世界はひとつであり、それが、だれにとっても共通だと感じれば、共通の課題もクリアできる。協力することで、クリアできる可能性がたかくなる。


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