オアゾから

ちょっと立ちあがって 元気もらう

エネルギーをもらったなあ、という経験はときどき起きる。

音楽ライブに行ったとき、実際にあったエピソードを聞いたとき、だれかの善行を目の当たりにしたとき。大笑いしたとき。

エネルギーをもらったなあ。元気をもらったなあ。

明日から、また、がんばろう。

そう思える。それはすばらしいことだ。本当に、明日のくるのが怖くなくなる。

けれど、それを本当にときどき、まるで偶然に宝くじがあたったかのように「元気もらっちゃったなあ」と感じるのなら、それはもしかして、エネルギーが足りていないのではないか。

有りあまるエネルギーがさいしょからあったらいいよ。でも私は、そういうエネルギッシュなタイプじゃないから。

そう、そんな感想にでてくる、エネルギッシュな人のエネルギーは、本人の内部から湧いているものなのだろうか? 火山のマグマのように?

植物をそだてるとき、水をあげる。たいていの観葉植物は、水だけ与えられれば、枯れずにいられて、また、成長することができる。これが、わたしたちにとっては食物。お腹がすいていたら、活動はできない。(食べ過ぎても活動できないけれど)。

しかし、一見して水にしか見えないその液体は、実は様々なミネラル、養分を含んでいる。それから、その水が通過することで、土にもともとあった養分が植物に吸収される。水を吸収しているだけのようでいて、実は、植物は水以外のいろんなものを取りこみ、成長している。

わたしたち人間にとっての「養分」って、なんだろう。食べ物以外のもの。一見、必要不可欠にはみえないのに、なくなったらたぶん死んでしまうかもしれないなあ、と思うもの。

それが、先に述べた「エネルギー」なのではないか、とわたしは思う。

ところで、このあいだ、ミュージカルを生で見た。人生における、初ミュージカル観劇。わたしの人生において、ジャンルそれ自体は知っていながら、興味のベクトルが一度も向かわなかったミュージカル。

なぜ見たのかといえば、知人が出演していたからで、社交辞令以上の理由はなかった。「見ましたよ、良かったですねえ」とのちのち会話のネタにするため。

そんなわたしだったのに、最後のほうでは、感涙してしまった。フィナーレには全力で拍手をしていた。人間、2,3時間もあればテンションMINからMAXに振りきれるものらしい。

そう、わたしは、エネルギーをしかと受けとっていた。

さて、この「エネルギー」を受けとる頻度はどれくらいかといえば、この時点で「こんなに感動したのは、いつぶりだろう?」と考えこむくらいの頻度だった。

その間の生活、エネルギーが、はたして足りていたのかどうか。

エネルギーを受けとる道は、いくらでもある。音楽、小説、詩、映画、劇、スポーツ観戦……。そのた諸々、いくらでもある。

けれど、ふだんからエネルギーをもらう経験をあまりしていない人にとって、「それらを実行する=エネルギーをもらえる」という式は、明確ではない。

現実にはもらえるとわかっていても、実際に経験するまでは、ある意味、信じきれずにいる。オリオン大星雲の美しい写真を見たことはあっても、それが実際に夜空にあるとは信じていない。いや、疑ってはいないのだけれど、望遠鏡を見て確認しようとまでは思わない。

実際に見ないでいると、それがどんなに素晴らしいものでも、現実なのかどうかはどうでもよくて、日々の現実的な生活のほうにばかり目がいってしまう。そして、エネルギーが足りないなあ、もっと湧いてくればいいのになあ、と夢想しながら限界家事をしたりする。

現実的な意識だけでは、人は、生きるのがむずかしい。植物がH2Oだけでは成長できないのとおなじ。

エネルギーをもらえる場所はわかっている。問題は、その場所まで、何回くらい向かえるか、であり、さらに頻度高く向かうには、何回、腰をあげるか、にかかっている。

最終的に、「腰をあげるエネルギー < もらったエネルギー」になることは、確実だ。「ただ休む < もらったエネルギー」になることも、期待できよう。



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