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棲家

「支度はできたの」
と、階下から母の声が聞こえて、仕方なく体を起こた。
どうしたのだろうか。
目を開けるのがやっとというくらいに体がだるい。
風邪でもひいたのだろうか。
風邪ならほかにも症状があるはずだ、喉が痛いとか鼻水がでるとか。
しかしそんな症状はなく、体が重い、だるい。
母が階段を登る音が聞こえたと思っていたら、部屋のドアが勢いよく開いて
「あと10分でくにちゃんが着くってよ、もう、まったく」
と、すっかり支度の整った母が仁王立ちしていた。
「わかった、すぐ支度するから」
とりあえず母に退散してほしくて、そう返事をした。
もう、まったくと繰り返しながら母は階段を降りて行き、待ちきれないのか、早くも玄関のドアを開けて外へ出て、妹の久仁子叔母さんの到着を待っているようだった。
多分、疲れたが出たのだろう。
金曜日の夜の飛行機で東京を経ち、昨日が父の七回忌の法事だった。
近くの料理屋で遅くまで親戚の相手をして飲んで食べて喋った。
睡眠不足かもしれない。

法事の席で久仁子叔母さんが母と話していた。
「明日、鶴森に行こう」
と。
鶴森とは母や久仁子叔母さんの実家のことだ。
「お兄ちゃんの家、だいぶ出来上がったみたいよ」
と久仁子叔母さんが言う。
ふたりの兄の治夫伯父さんも今は母や叔母さんの住むこの町・花城で暮らしているが、祖父が建てた古い家を建て替えてそれが完成したら鶴森で生活することになっている、という話はどこかで聞いたことがあったがまだ家は完成しているわけではないらしい。
「じゃあ、見に行こうか、梓もちょうどいることだし」
母は二つ返事で久仁子叔母さんの提案に賛同し、それどころか私まで巻き込もうとしている。
「そうね、梓も見ておいた方がいいね」
と、久仁子叔母さんまで言い出した。
なにを見ておいた方がいいのか、さっぱり理解出来なかった。
「ね、梓」
とふたりにほぼ強引に合意させられて、仕方なく頷いたのだった。

カーテン越しに、今日も天気が良くて暑い日になりそうなことはわかった。
とりあえずベッドを抜け出して歯を磨き、顔を洗って、髪をとかして着替えた。
それだけでかなりの体力を消耗した。
外に車が停まった音がしたと同時に母と叔母の賑やかな話し声が聞こえてきた。
「早く行かないと」
と、腰掛けていたベッドから立ち上がると
「梓、行くわよ」
母が催促した。

高速で行けば40分ほどしかかからない鶴森だったが、久仁子叔母さんは下の道を走って行く。
少し山側へ入って老舗の和菓子店の若鮎を買い、国道沿いの道の駅でもあれこれ買い物をした。
鶴森の町に入ってからは祖父母のお墓参りをして、小さな漁港の前の海産物店では買い物半分、地元の知り合いとのお喋り半分で30分以上滞在していた。
私は最初のうちは母たちに付き合って、寄り道するたびに車から降りて一緒に歩いて回ったのだったが、海産物店ではめまいや吐き気までしてきて、駐車場の脇の日陰のベンチでふたりが出てくるのを待っていた。
日差しは眩しく、潮の匂いのする熱い風が吹いている。
車内では寄り道をしてなにか買うたびに母や叔母があれこれ食べなさいと勧めてくるが、最初にもらった若鮎を食べたきりなにも喉を通らなくなった。
若鮎も好んで食べたわけではなく、受け取ってしまったので仕方なく食べた、というか無理矢理飲み込んだのだ。
昨日悪いものでも食べたのだろうか。
二日酔いするほど飲んではいないはずだ。
やっぱり風邪か。
明日東京に帰れるだろうか、このまま数日寝込んでしまわないだろうかと不安がよぎった。
ふたりはまたたくさん買い物をしたものを抱えて戻ってきて、梓にもお土産買ったから東京に持って帰りなさいと、叔母に袋を手渡されて
「ありがとう」
と精一杯の笑顔を作って答えた。
「あんた、大丈夫?」
多分、顔色も悪いのだろう。叔母は私の顔を覗き込み、額に手を当てた。
「熱はないみたいね」
と言って車の後部座席のドアを開けて荷物と私を押し込んだ。

車が走り出すとまた母と叔母は賑やかにお喋りを始めた。
私はもう座っていることも出来なくて、買い物袋に埋もれるようにしてシートに横たわっていた。
気分が悪い。頭痛もするし、なんだか眠いようでもあり、吐き気がして胃が締め付けられるような感じもある。
一体これはなに?
窓外を懐かしい景色が流れていたが、それを楽しむ余裕はなかった。
海岸線のすぐそばまで山が迫り、海辺の一本道のその道路沿いに母たちの実家、いまは伯父が建て替えをしている家がある。
もう少しこのまま進めば観光船の船着場があり、大きな海水浴場もある。
伯父の家は鶴森のなかでも一段と長閑な場所で、町の中心地と観光地の間に位置し、目の前は干潟が広がる海、裏は雑木林。
両隣まで50メートル以上離れている。
「もう着いてるみたいね」
叔母がそう言う。
「向こうが早かったね」
と母が窓を開けて手を振っている。
伯父の家を通り過ぎ、少し先の空き地に車を停める。
すでに一台車が停まっていて
「志保が先だったね」
と母が一番に車を降りた。
志保は治夫伯父さんのひとり娘で、わたしのいとこ。
いずれはここが志保の家になる。
私が聞き逃してしまっただけなのか、母たちが言い忘れていたのか、ここで志保と待ち合わせをしているとは思わなかった。
志保は夫の洋介の車で来たようで、洋介が母と挨拶をしているのが聞こえてきた。
「叔母さん、ごめん、私ここで休んでいていい?」
「いいけど、ほんとに大丈夫なの?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、家、見てくるからね」
車の窓を全部開けて、後部座席に蹲る。
山の緑の匂いがする。
木の香り、土の匂い、日に焼けた草の香りを孕んだ夏の風が吹き抜けてゆく。
暑いのだが、体の芯は冷えている。震えるほどではないが熱が出る前の感覚に似ていなくもない。
時折母たちの話し声が聞こえてくる。
でも体は動かない。動けない。
なにか硬い殻に押し込められているように体が動かない。
それが5分だったのか、30分だったのか、1時間だったのか、時間の感覚も鈍くなっていて、起きているのか、うとうとしてしまったのかわからなかった。
「だいぶ出来たと言ってたけど、まだまだね。もっと形になってるかと思って来たのに」
叔母の声が近付いてきた。
「桝本のおじさんが忙しいみたいよ。ここ遠いし」
と志保。
「お盆には間に合わなさそうね」
と母は言い、車で横たわったままの私を見るなり
「まったく」
と、今日何度目かのまったくを吐き出した。
「よう、梓ちゃん、大丈夫?具合悪いんだって」
と洋介がすぐ窓の外で大きな声を出した。
私は手だけで返事をすると
「田舎の空気は梓ちゃんには合わないんだな」
と言って母と叔母に志保をよろしくと挨拶をして自分の車の方へ歩いて行った。
洋介はこのままどこかへ行くようだ。
志保がこの車に乗ってくるとなると、私が後部座席を占領するわけにはいかない。
のろのろと体を起こして、買い物袋を後ろのトランススペースに移し、どうにか座ってシートベルトを装着した。
ぐらりと視界が揺れて頭がズキズキと痛んだが、志保はおかまいなしに車に乗り込んできて、私の肩をポンポンとたたき
「梓ちゃん大丈夫?昨日は元気そうだったけど、どうしたの?疲れがでたのかな」
と言った。
叔母と母も慌ただしく車に乗り込んで
「くにちゃん、予約何時だったっけ」
と母が車のコンソールボックスの時計を気にしている。
「1時半よ、大丈夫、帰りはどこにも寄らないから1時間で着くわよ」
と答えながらエンジンをかけた。
予約って、なんだっけと、朦朧としながら考えてみたが思いつかない。
母が助手席から振り返り
「梓、海老は食べられるの?」
と聞いてきた。
そうか、海老料理店を予約するって昨日母が言っていた。
頭痛と眩暈と吐き気で考えただけで胃がきりきりしそうだったが、海老は志保の好物だということを思い出した。
「なにか食べるよ」
とそっけなく返事をして目を閉じる。
「まったく」
母は不機嫌な顔で睨んでいた。

伯父の家を出発して、昔ばあちゃんと歩いた道を車は走ってゆく。
角の交番、その向かいに漁協。いまだに店ひとつなく、ぽつんぽつんと民家があるだけだ。
魚を干していたり、畑仕事をしていたり、時間が止まったような集落だ。
小学校の前を過ぎてさっき寄った海産物店の前を通る。
このあたりが鶴森の町の中心で役場や郵便局や雑貨屋が並ぶ。
学校も夏休みに入った日曜日のお昼どき、道ゆくひとはまばらだ。
小さな丘をまわり込んで田んぼ道にでると間もなく国道だ。
稲の緑が風にそよいでいる。
「まだ柱が立ってただけだったね」
「階段が前の家とは向きが違うように作ってあった」
「階段ね、前の家のは急だったから、今度はもう少しなだらかに作らないとね」
「完全に二世帯にするの?」
「うん。玄関も別にする。前に階段があったところに私たちの玄関を作るって。だから向きを変えたんじゃないかな」
母と叔母のおしゃべりに志保も入って、カーラジオも聞こえないほどかしましい。
「梓ちゃん、これ食べる?」
志保がバッグからイカの姿焼き煎餅の袋を出して開けた。
車にイカの香りが広がる。
「半分こしよ」
志保は手のひらより大きいイカ煎餅をバリッと割り、まず前の席の叔母と母に、もう一枚取り出して半分にして私に差し出した。
ふしぎなことになんとなく空腹を感じて、差し出されたイカ煎餅を志保から受け取る。
一口齧ってみる。
悪くない。
適度な塩味と、ほんのりとした甘さのあとにイカの香ばしさが口の中に広がる。
美味しい。
もう一口齧る。もう一口。
考えてみたら朝から口にしたのは無理やり飲み込んだ若鮎だけだった。
あっという間にイカ煎餅を完食した私に驚いた母は
「あんた、気持ち悪いんじゃなかったの」
と嫌味を言う。
志保がすすめてくれたペットボトルのお茶にも口をつけてごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
そうだ、私はさっきまで猛烈に気持ち悪かった。吐きそうだった。胃が締め付けられて、体が重くて、なんだか寒くて。
どうしんたんだろう。
体が軽くなってきた。つかえていたものがすっと取れたような気分。
もうシートにもたれたかからなくても自分で座っていられる。
「もう一枚食べる?」
志保が差し出したイカ煎餅を笑顔で受け取り、今度は一枚丸ごと完食した。
「まったく、わがままなのよ、梓は。行きたくないなら行きたくないって言えばいいじゃない」
母は呆れ顔だった。
伯父の家を出発して間もなく少し気分が良くなって、伯父の家を離れれば離れるほど、頭痛も吐き気も胃の痛みも軽減して、花城の町に入ってからは普段と変わりない気分に戻っていた。
自分でも不思議だった。
もちろん海老料理店では東京では味わえない新鮮な海老を堪能し、夕方やってきた兄の家族と食事をしてそのあと姪っ子たちと花火を楽しんだ。
翌日飛行機で東京に戻り、私の短い夏休みは何年振りかの帰省で終わったのだった。

母から電話がかかってきたのは10月も半ば夜のことだった。
「おじちゃんたちが鶴森に引っ越ししたよ」
とそれを知らせるために電話をしてきたようだった。
「そうなんだ、出来上がったんだね、家」
「出来上がった。でもあれから色んなことがあってね、私、あんたに謝らなくちゃと思って」
と、母は話を始めた。

私が東京に戻ってからしばらくして、志保が原因不明の熱を出した。
何日も熱が下がらず、大きな病院で検査をしたが原因がわからなかった。
それから数日後に桝本のおじさんも熱を出した。
志保と同様に原因不明だった。
桝本のおじさんは志保の母親・アキ子伯母さんの姉の夫、志保の母方の伯父にあたる。
桝本のおじさんは大工で、治夫伯父さんの家の新築を請け負っていた。

そういえば、前にもこんなことがあったと思い出したのは久仁子叔母さんだった。
志保が高校を卒業して鶴森の漁協で働いていたときのことだ。
「久仁子があの時と同じだって言い出したから大騒ぎになったのよ」
祖父が亡くなって鶴森で一人で暮らしていた祖母が心配なこともあり、鶴森の家からも歩いて行ける場所にある漁協で事務員を探していたので志保がその仕事を引き受けたのだった。
歩いて行けるとは言っても15分ほどはかかり、途中交番の前を通るまでは廃屋が一軒あるだけの寂しい道を志保は毎日通勤していた。
その時も志保は熱を出した。やはり原因不明だった。誰かが、そうだ、洋介だ。
高校時代から志保と付き合っていた洋介が祈祷師を連れてきたのだった。
たくさん、憑いている。
祈祷師はそう言って志保とふたりでしばらく部屋に籠り、外には念仏のような声が聞こえてきたという。
毎日通る廃屋に一度雨宿りで入った志保に、その廃屋に集まっていたその土地のいろんなモノたちが憑いてしまった、と祈祷師は言ったそうだ。
それから数日で志保の熱は下がった。
本当になにか憑いていたから熱が出たのか、志保の体調のせいだったのか。
年月とともにそんな出来事もみんな忘れかけていた。
今回志保が熱を出したとき、洋介はちょうど出張で東南アジアに行っていた。
治夫おじさんは、憑き物などいないと言い張ったが、アキ子伯母さんは祈祷師を連れてきた。
祈祷師は洋介の祖母だった。
あぁ、また、いっぱい憑いとる。
そう言って、今度は半日ほど志保と籠った。
なかなか離れてくれんだったが、多分大丈夫だろう、と祈祷師のシノは帰っていった。
翌日、志保は熱が下がった。
アキ子伯母さんはもう一度シノを呼び、今度は桝本のおじさんを視てもらった。
こっちはもっと憑いとる。
狐、ヘビ、猫、ありとあらゆるものが憑いとる。
シノはそう言ったという。
シノによると、、、
空き家になった家には色んなモノたちがやってきて棲み着く。
空き家の年月が長ければ長いほどたくさんのモノたちの棲家になる。
そこへ人間がやってくる。
人間には憑きやすい者と、そうでない者がいるし、長い時間いれば、憑きやすくない者でも憑かれてしまう。
志保は優しい子だから、そういう子は憑かれやすい。
大工さんは、仕事が遅れてたからって、寝袋持ってきて泊まり込みで、作業してたっていうんだから、日が落ちてひとりでいればそこにおるモノたちに憑かれるわなぁ。
空き家だったときにやってきたモノたちが、家は取り壊されても土地に残ったんだろな、と。
さすがの治夫伯父さんもアキ子伯母さんの言う通りに、祖父母の土地にシノを連れて行き、隅々まで視てもらい、浄化をしたという。

母は言う。
「それでね、思ったのよ。梓、あの日、具合が悪いって言ってたでしょ。具合が悪いって言って車から降りなかった。梓はお父さんと一緒だから、あの日あの家に入ってたら、なにかあったんじゃないかって。あの家に入らないようにお父さんが守ってくれたんじゃないかって」
私は母の話を聞きながら、部屋に飾っている父の写真を見た。
そうか、父が守ってくれていたのか。
「お父さんもへんなこと言う人だなぁと思っていたのよ。誰もいないのに誰かいたとか、よく言ってた。梓も小さい頃からおかしなことばかり言う子だった。私には理解できないこと、よく言ってた。でもお父さんは笑って梓の話を聞いていたのよ。お父さんには理解出来ていたのよね。お父さんのそういうとこ、あんたが受け継いだのね。ごめんね、あんたが具合悪いって言ってるのを私は責めちゃって」
そうか、あの時、もし体調が悪くなくて、母たちと一緒にあの家に、あのいろんなモノたちの棲家に足を踏み入れていたらどうなっていたのだろう。
なにかを見たかもしれない。
それだけで済まなくて私が憑かれたかもしれないし、もっと酷い目に遭っていたかもしれない。
そうならないように父があの世から送ってくれたサインだったのかもしれない。
あの家に入らないように父が守ってくれた、それは間違いないことだと思われた。

あれ以来、私は帰郷しても伯父の家には行っていない。
鶴森の祖父母の墓参りに行くことはあったが、母は伯父の家に行こうとは言わなかった。
今思えば、伯父の家のある場所は三方を山に囲まれた場所で、素人目にも、良くも悪くも色々なものが集まるというか、その土地が良い気も悪い気も抱え込むような場所に思える。
きっと良い気というものは動いてゆくので、そこへ入って来ても天へと抜けてゆくのだろう。
しかし悪い気は滞留し、その場で渦を巻くしかない。
鶴森の伯父の家のあるあの集落はそんな場所なのかもしれない。




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