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ブルームーンセレナーデ chapter 3

伝説のボトル第1号

ハワイ、オアフ島。
海に面して立つ小さな白い建物は、人々の記憶の中で今も生き続けている。
賑やかな笑い声とコーヒーの香りが、目を閉じれば波音とともに蘇る。
その店の名前はブルームーン。
人々に沢山の思い出を残した店の物語。

🌴

「また間違った!緑茶だぁ」
薫はあまり得意ではない緑茶を、しかもハワイアンウォーターのつもりで飲んでしまったためにむせてしまい、真新しいボトルを恨めしげに見つめている。
「名前でも書くか?」
薫のしかめた顔が可愛くて靖彦は茶化してみた。
「やだ、かっこわるい」
靖彦とお揃いのボトルは嬉しいけれど、全く同じ色、形では間違ってしまっても仕方ない。
でもせっかく買ったんだから、早く使ってみたかったし、ふたりで一緒に持って出かけたかったその結果が薫の渋い顔だったのだが、靖彦はそれがたまらなく愛しいのだった。

🌴

薫は新婚旅行で初めてハワイに来た。
ハワイに行く、と決まった時から、もう楽しみで楽しみで仕方なかった。
嫁ぎ先は地元の家族経営のスーパー「稲田屋」で毎日朝から晩まで忙しい。
仕入れ、品出し、レジとなんでもやる。
稲田屋の休みは正月三ヶ日だけで、新婚旅行で海外に行くほど息子夫婦に休みをくれるとは思っていなかった。
しかし義父母となる人は優しかった。
「薫ちゃんは高校生のときアルバイトでうちに来てくれて、そのまま就職して、いまでは店になくてはならないひとになってくれた。贅沢はさせてあげられないけど、1週間くらい楽しんでおいで」
と言ってくれた。
そもそも稲田屋でアルバイトを始めたのはそこで働いていた靖彦に一目惚れしたからだった。
靖彦のことをアルバイトだと思っていたから、一緒に働けば接点ができると思って面接を受けて、働き始めてから靖彦が稲田屋の後取り息子だと知った。
四つ年上の靖彦は薫がアルバイトを始めたときは大学生で、一度は一般企業に就職したものの、3年前にそこを退職して稲田屋の経営に携わるようになった。
ふたりの交際が始まったのは靖彦が稲田屋に戻ってきてからだった。
薫は靖彦が好きだったけれど、稲田屋も好きだった。
稲田屋で働くようになり、その仕事、仲間、地元のお客さんに愛されている稲田屋という店が好きになり、薫自身もそれらから可愛がられた。
靖彦目当てで始めたアルバイトだったけれど、もし靖彦に告白をしてうまくいかなければ、稲田屋までも失ってしまうかもしれないと思うと、靖彦への思いを口にできずにいた。
何事にも活発で溌剌としている薫だったが、恋には臆病な少女だったのだ。
「薫ちゃん、まだ働いててくれたんだ」
薫は靖彦が戻ってきたとき、稲田屋の家族以外では3人しかいないの社員のひとりとなっていた。
食料品から日用雑貨まで稲田屋で扱う商品はすべて薫が取り引き先と交渉して仕入れていた。
仕事上ではあったもののふたりで一緒に過ごす時間が増え、仕事帰りに食事に行ったり飲みに行ったりするうちふたりは自然に付き合うようになった。
と、靖彦は思っていた。
高校生のときからの秘めた想い、靖彦への片想いが突然恋に変わった。ドリカムの歌みたい!
と、薫は思っていた。
「なんだ、早く言ってくれればよかったのに。最初に見たときからかわいいと思ってたよ。まぁ、その時は薫はまだ子供だったけどね」
初めて手を繋いで地元の海辺の道を歩いていたときに靖彦が言った。
仕事では意見が合わなくて喧嘩をしたこともあった。
でも恋するふたりには喧嘩もスパイスでしかなく、見解の相違はお互いをよく知る機会であった。
いつまでも男と女じゃうまくいかないのよ、結婚はね家族になることよ、と薫に話してくれたのはいまは亡き祖母だった。
靖彦と結婚し、家族になり、ハワイへハネムーン。
これ以上幸せなことはない。
何冊もハワイのガイドブックを買い込み、オアフ島の地図にあちこち印をつけ、行きたい場所や食べたい物のリストを作って訪れたハワイだった。

🌴

昨日アラモアナセンターに買い物に行ったときに薫は紺色のボトルを買った。
日本ではまだ取り扱いのないメーカーの水筒はハワイで買いたいもののひとつで、ワイキキで買うつもりだったがアラモアナセンターで見つけた。
アラモアナセンターへ行ったのは靖彦のスニーカーを買うためだった。
ショップを何軒も見て回って、何足も試着して、でもこれという一足が見つからなくて、そのうちに薫は疲れてしまった。
靖彦を残して店を出てベンチに座って待つことにしたそのときに買い物リストのトップに書いていたボトルが目に入ったのだった。
ようやく靖彦が大きな紙袋を提げて薫の待つ場所へ現れて、その紙袋から四角い箱を取り出した。
「お待たせ、お待たせ。やっと決めたよ。それから薫が探してやつ、あったから買ってきたよ」
と、靖彦が薫にそれを手渡したと同時に、靖彦はすでに薫が同じものを手に入れていたことに気が付いた。
「あ、もしかして、同じもの?」
「紺のボトル?」
靖彦も薫の隣に座って、ふたりでそれぞれが買った箱を開けると、全く同じボトルがふたつ並んだ。
「あちゃ。ダブった、返品するか」
「せっかくだから一緒に使おうよ、お揃いで」
「そうだなぁ、そうするか」
その紺のボトルを持ってノースショアのツアーに参加したのだった。

🌴

ブルームーンは最近話題になり始めた店で、ノースショアツアーのフリータイムに靖彦と薫はやってきた。
でもここに到着するまでに何度もボトルを間違えた。
靖彦は緑茶を、薫はハワイアンウォーターを入れていたのだが、靖彦はハワイアンウォーターを飲んでしまったし、薫は緑茶ばかり手に取った。
ブルームーンに着いて、カウンター席でふたりはユウサクのサンドイッチを食べていた。
日本のガイドブックにユウサクのタマゴサンドが紹介されていたからだ。
「ボトル、なにか目印をつけないとダメだな」
靖彦がホットサンドを頬張る。
「そうだね、かわいい目印がいいね」
薫はだし巻きタマゴを挟んだダシタマサンド。
「ねぇ、あの壁に描いてあるような椰子の木のステッカーとか貼ったらどうかなぁ」
薫はグレーがかかった薄い水色の壁に描かれた椰子の木と月を指差した。
「いいねぇ」
「ここに売ってないかなぁ」
「聞いてみようか」
そこにちょうどレイコがデザートのハウピアアイスを持ってきた。
ハウピアアイスもブルームーンで食べるべき逸品として旅番組で紹介されていたものだ。
「あの壁の椰子の木のステッカーは売ってませんか」
「あれね、素敵よね、私も気に入ってるの。でもあの椰子の木のステッカーは売ってないの。置いたら売れるかなぁ」
レイコはふたりの前に高台付きのガラスの器に入ったハウピアアイスと真鍮の小さなスプーンを置く。
「うん、欲しい人いると思いますよ」
「考えてみるね。ヒントをありがとう」
「いえ、いえ」
「椰子の木のステッカーがあったら何かに貼りたかった?」
薫はバッグから紺のボトルを取り出した。
「昨日同じものを2つ買っちゃって、違うものを入れてるんだけど、見分けがつかなくて」
「あら、ほんと、同じじゃ間違っちゃうね」
レイコはハワイで暮らしているとは思えないほど肌の色が白い。
その白い指でボトルを持ち上げて、椰子の木のステッカーがそれに貼られているところを想像してみた。
「直接ボトルに描いちゃダメ?あの椰子の木を描いたひとが今いるんだけど」
「ええ、ほんと?」
「ちょっと待ってね、呼んでくるから」
レイコはカウンターからその奥の厨房へと入って行った。
厨房ではユウサクがふたりに出すコーヒーの準備をしていて、珍しく厨房に入ってきたレイコにどうした?という視線を送った。
テイクアウト用の受け渡し口ではミズタニが最近よくタマゴサンドを買いに来てくれる客と話していた。
「ミズタニくん、ちょっとお願いがあるんだけど」
ミズタニはレイコの声に振り向き、客とはまた、と挨拶をしてそこを離れた。

🌴

「このボトルにあの椰子の木を?」
「はい。描いてもらえますか?」
「あぁ、もちろん」
ミズタニは靖彦の隣に座り、薫からボトルを受け取った。
高さ20センチほどの円筒形のカンバスにどう椰子の木を描こうかと構図を考えること数秒、
「レイコさん、白いマジックあったよね」
とミズタニは言った。
「うん、ちょっと待って」
レイコはカウンターの下の抽斗を開ける。
「あった、あった」
レイコが差し出した白いマジックでミズタニは紺のボトルに椰子を描く。その上には月。
「Blue Moon の文字は入れる?」
「はい、お願いします」
ミズタニは迷いなくペンを走らせて瞬く間にボトルを変身させた。
「いいねー!」
靖彦が一番に手に取って眺めている。
「私にも早く見せて」
薫は靖彦からボトル奪う。
ブルームーンの壁は薄いグレーがかった水色だけれど、ボトルは紺。
その紺がハワイの夜空のようで、その中で白い月が椰子の木を照らしていた。
Blue Moon の文字は椰子の木に穏やかに寄せては返す白い波。
「素敵!!ありがとうございます」
「でもマジックで描いただけだから消えちゃうかもなぁ」
ミズタニはちょっと、と言ってもう一度ボトルを手に取り、椰子の葉を一枚描き足した。
「消えないように大事にします」
ミズタニから戻されたボトルを見てうんうんと頷く薫。
コーヒーを運んできたユウサクも椰子の木が描かれたボトルを見て
「おお、いいじゃん」
と歓声を上げた。
「お待たせ、レインボーブランドです」
白い陶器のカップとソーサーには一本のブルーのラインが入っている。
「なぜレインボーなんですか?」
「ハワイでは虹は6色なの。このコーヒーはハワイの6つの島で採れたコーヒー豆をブレンドしてるの。
だからレインボーコーヒー」
「なるほど。すごくいい香りだし、なんていうのかな、深いというか、色んな豆の味がして、甘みもあってとっても美味しい」
薫は椰子の木が描かれたボトルにレインボーブランドを入れてもらって持ち帰ることにした。もちろんレインボーブレンドの豆も買った。
「じゃあ、また来ます!とてもおいしかったし、楽しい時間が過ごせました」
靖彦が立ち上がり、薫もそれにならう。
レイコは椰子の木が描かれたボトルを持った靖彦と薫の写真を撮った。
ボトルだけの写真も撮っておいた。

🌴

それから一年ほどたった日のこと、薫は靖彦を送り出して部屋の掃除を始めたところにインターフォンが鳴った。
「郵便局です、国際郵便をお届けに来ました」
薫は心当たりがなかったし、靖彦も海外で買い物をしたらそう言ってくれるはずだし、一体なに?と思いながらドアを開けた。
「イナダヤスヒコさん、カオルさん、間違いないですか?」
薫はサインをして荷物を受け取り、差出人を見た。
Blue Moon レイコ
あ!ブルームーン!レイコさん!!
一体何が届いたのかと思って、ダイニングテーブルに着いて早速包みを開けた。

靖彦さん 薫さん
Aloha!
お元気ですか?
おふたりにアイデアをいただいた椰子の木のステッカーを作って販売しています。とても好評です。
そしてあの時の薫さんの椰子の木を描いたボトルの写真をお店に飾ったら、それも欲しいという方がいらっしゃって、ボトルも商品化しました。
薫さんのボトルがブルームーンのボトルの第1号となって、たくさんのお客さんがボトルを買いに来てくれるようになりました。
おふたりに何かお礼をと思い、ステッカーとボトルを送ります。
またハワイに来てくださいねー。
mahalo
レイコ

靖彦と薫がハワイで買ったボトルよりひとまわり小さいボトルにはあの椰子の木がプリントされている。
あ、かわいい。
薫はレイコから送られてきたボトルを手にそっとお腹をなでた。
「これはあなたのために使いましょうね」


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