一塊の石のなかに こころの宇宙を観る
広大な宇宙にひとつの星が生まれ、やがて一生を終えて塵となり、そしてそこからまた星が生まれる… はてしなく繰り返された宇宙の営みのなかで生まれたこの地球、そしてこの大地。
私たちの傍らに在るなにげない石に刻まれた世界は、自然が私たちに語りかける言葉そのもののような気がします。自然の石が見せる表情のなかに何を観るのか… それは見る者の心を映し出す鏡なのかもしれません。
石のなかに私を視…私のなかに宇宙を観る… まるで合わせ鏡のように織りなす世界は、あたかも石が遠いむかしに別の星で在った時の夢を見ているかのようでもあります。その時、私もまた宇宙に漂う塵のひとつだったことに気付かされます。誰も気にも留めないありふれた石が見せる表情は、今までに見たこともない世界に連れて行ってくれます。
道元禅師は「ただの泥のかたまりだと見ると、自己を軽んじることになる、人に心があるのならば、摶(かわら)にも心がある」ということを説いています。
ただの石に過ぎないと思うと、石は何も語ってはくれません。
これはartistic languageによって繰り広げられた、傍らの石とのささやかな交遊録のようなものです。
時に、一塊の石が「師」として立ち現れる瞬間に出遭うことがあります。それはまるで禅の公案のようでもあり、また道標でもあるかのように私を手招きしてやみません。
撮影は耳を澄ましてその微かな聲を聴き取ろうとする行為であり、画像処理は声なき聲の増幅装置と認識しています。日常の光をデフォルメすることで非日常の世界を垣間見ようとする行為は、自然が発する言葉を翻訳する感覚に近いような気がします。
作品は望遠鏡のようなものと思っています。対峙した石のなかに顕れる自身の姿の奥に私自身のものではないもの、この世に生まれる時に天から預かってきたものが浮かび上がります。それを私は鏡とよんでいます。その鏡を望遠鏡として潜在意識の彼方に広がる銀河を観ている感覚です。
人類の…或いは生命体としての集合意識なのかもしれません。タイトルはその望遠鏡のアイピースへと導くための呼び水に過ぎません。作品を、望遠鏡という「物」と見る人と、その視野に銀河を視る人では、見える世界は異なってきます。その鏡に何を映すのか… そこに自我の手垢は要らないのかもしれません。自我は預かりものである鏡の調律師のようなもの、そして言葉というアイピースを組み上げ、その視野に超意識の世界に浮かぶ銀河へと誘う担い手なのかもしれません。
絵筆がキャンバスに絵の具を定着させる道具であるように、カメラはそこにある光を定着させるもの。その原点に立つとき、「写真」という既成概念から解き放たれてイマジネーションの翼は未知の世界へと旅立ちます。
坂本 作鏡
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