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古代ギリシア人とローマ人の死生観2

死後の裁きと報い

 ホメロスの描く冥界は陰鬱な場所ではあるが、とくに悲惨な場所というわけではない。それは冥界が、大罪を犯したティテュオス、タンタロス、シシュポスが過酷な罰を受けている、冥界の奥深くにあるタルタロスを除いて、基本的に悪人が罰を受ける場所ではなく、単に死んだ人間の魂が住む場所にすぎないからだ。

 この点で中世イタリアの詩人ダンテの『神曲』地獄篇が、地獄をいっさいの希望のない場所とし、罪を犯した人間が罰を受ける阿鼻叫喚のさまを克明に描き出しているのとはおおいに異なっている。

 反対に、善い行いをした者が天界で幸福な生を送るということもヘラクレスのような一部の英雄を除いて基本的にないようだ。

 ホメロスには死者を裁くミノス王が登場するが、それにもかかわらず、悪人が地獄で罰を受け、善人が天界に送られるという観念は希薄で、特殊な例に限られている。死後、ほとんどの人は地下の冥界で、喜びも苦しみもなくただ影のように暮らす。
 
 だがこれもプラトンになると変わってくる。

 プラトンの対話篇は対話部分と物語部分(ミュートス)からなっていて、『パイドン』、『ゴルギアス』、『パイドロス』、『国家』には、エーデルスタインが「死後の魂の運命についてのミュートス」と呼んだ物語が含まれている。

 これらによると、人間は皆、死ぬと裁きを受け、罪を犯した者は地下で罰を受け、正しい生涯を送った者は天界や幸福者の島で幸せな生活を享受するという。

 すべての人は死後、生前の行いの報いを受ける。世界三大宗教のキリスト教やイスラム教、仏教でおなじみの、わたしたちにも馴染み深い話だ。

死は厭うべきものか望ましいものか

 古代ギリシア人やローマ人は、死に対して三通りの考え方をもっていた。死よりも生を良しとする考え方、反対に生よりも死を良しとする考え方、死は良いものでも悪いものでもないという考え方である。

 以下は、オデュッセウスの冥界下りの物語が語られる、ホメロスの『オデュッセイア』第11巻で、冥界で暮らす死者アキレウスがオデュッセウスに言った言葉である。

「勇名高きオデュッセウスよ、わたしの死に気休めをいうのはやめてくれ。世を去った死人全員の王となって君臨するよりも、むしろ地上に在って、どこかの、土地の割当ても受けられず、資産も乏しい男にでも雇われて仕えたい気持ちだ」

松平千秋訳 ホメロス『オデュッセイア』岩波文庫

 アキレウスは死者の国の王となるよりも、たとえ雇われ人であっても地上で生きていたほうが良いといって、冥界で暮らす身の上を嘆いている。彼は、タンタロスのようにつらい責め苦を受けているのではない。だが苦しみもないかわりに喜びもない暮らしが悲しいのだろう。

 反対に、ピュタゴラス派の哲学やオルフェウス教では、魂が汚れた肉体から解放される死を、魂が肉体に囚われている生よりも良いとする考え方がみられる。これはしばしば「肉体は魂の墓場である」と表現される。オルフェウス教・ピュタゴラス派の影響を受けたプラトンの著作にもよく現れる。

そのとき、きよらかな光をみたわれわれもまたきよらかであり、肉体と呼ぶこの魂の墓(セーマ)、いま牡蠣のようにその中にしっかりと縛りつけられたまま、身につけて持ちまわっているこの汚れた墓に、まだ葬られずにいた日々のことであった……

藤沢令夫訳 プラトン『パイドロス』岩波文庫

 またプラトンは、哲学者と一般の人々とで死に対する考えが違うことを指摘している。

「哲学者以外のすべての人々が誰も死を大きな災悪の一つと考えていることは、君も知っているだろうね」

岩田靖夫訳 プラトン『パイドン』岩波文庫

 このような、生は死よりも良い、または死は生よりも良いという考え方に対し、死は良いものでも悪いものでもないと考えたのが、ストア派哲学者でローマ五賢帝の一人であるマルクス・アウレリウスだ。 

とはいえたしかに死と生、名誉と不名誉、苦痛と快楽、富と貧、すべてこういうものは善人にも悪人にも平等に起るが、これはそれ自身において栄あることでもなければ恥ずべきことでもない。したがってそれは善でもなければ悪でもないのだ。

神谷美恵子訳 マルクス・アウレリウス『自省録』岩波文庫

 さらに、エピクロス派の創始者エピクロスも、死は良いものでも悪いものでもないと考えている。死はわたしたちが生きているときには存在せず、死が存在するときにはわたしたちはもう存在しないので、死はわたしたちにとってはなんでもないものだからというのがその理由である。

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