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早起きの母に絶望した私と、うまく飲めない白湯

幼い子どもが懸命にやっているのに、ちょっぴりうまくいかない、その健気な光景は愛らしい。いや当の本人は必死なんだから申し訳ないのだけど、まぁ愛くるしい。小さなお指で何かつまもうとして落ちちゃうとか。ウインクしようとして両目をつぶっちゃうとか。カツオがカツヨになって、お薬がオスクリになって、パソコンがパコソンになっちゃうとか。もう愛しくて愛しくて、寿命が伸びる思いである。

こんなことを思うあたり、私も老化に片足、いや半身、え?厚かましい?全身?つっこんでいるということなのだろう。昔は、できることが素晴らしいこと、できないことはダメなことだと信じていたから。幼い子を可愛いと感じる瞬間よりも、騒がしくて汚らしくて面倒だとうんざりする瞬間のほうが多かったから。
今は目の前に小さな命があると、それだけで目を細めてしまう。えらいねぇ、生まれてきてえらいねぇ、と謎の感慨に浸るおばばである。

その昔、中学受験にむけて塾通いをしていた私は、ある日曜の朝に絶望を感じた。6時だというのに、母はすでに洗濯と掃除を終え、ごはんをよそってお味噌汁をあたため直せば、すぐに食べられる食卓が用意されていたからだ。そんなことはずっと当たり前で、それまで何とも思っていなかったのに、唐突に「お母さんって、これから一生、お寝坊できないんだ。かわいそう」と衝撃を受け、その後「まさか私もそうなるの?むり」と絶望したんである。

ここで「今まで気づかなくてごめんね、お母さんありがとう」「私にできることはないかしら」とならず「え、まじかよ。むりむり」となる恩知らずっぷりが、なんとも私である。若草物語を100回読み直して悔い改めるべきである。クリスマスの朝のごちそうを!いきなり母親が寄付して!それでも幸せを感じる姉妹!し、しびれる〜。

有難き母上の愛に感謝するどころか絶望した薄情な娘は、年を重ねて自分が早起きする母になったわけだが、分かったことがある。家族のために早起きするのは、わりと幸せであること。
……というのは、まぁ2割。残りの5割は「誰にも邪魔されない静かな早朝は、ぶっちゃけ最高」という本音、2割は「何時間でも寝られるのは若い体だけであり、ワシはもう5時に目が覚める」という真実、そして最後の1割は「もちろん、たまに寝坊もできる」ということである。あの、これ、足して10になってる?大丈夫?

娘たちの冬休みが終わり、明日から騒々しい日々が待っている。5時半に長女を起こし、寒い寒いと着替えにモタつく彼女をホットレモネードで釣りながらお米を土鍋にかける。6時に次女を起こし、階段を抱っこで上がり、眠いと言っていたくせにお腹が空いたと言う彼女のお味噌汁をあたためる。最後に起きてきた夫に「お味噌汁だけでも飲んだら」と発酵食品信者よろしく味噌を薦め断られ、えっーとハンカチは、ティッシュもあるわね、検温も登録したから、はーい今日も楽しんでね!あ、あなたゴミ出し〜!ゴミの日〜!ゴミ!ゴミお願いします〜!

……という日常の前に、5時に飽きたら火曜更新のweb漫画をチマチマ読み、あったかい靴下を履いて、のそのそ階段をのぼり鉄瓶で白湯をわかし、刺繍をチマチマするんである。
白湯はいつも、すぐ飲んで火傷するか、冷ましすぎるかのどちらかで失敗ばかり、そのうまくいかない様は幼子と違って愛らしくもなんともないのだが、私の母がいれば「あぁもう、冷めちゃってるじゃないの。もう一回わかすからね」と、呆れながらも笑ってくれるんだろうなと思いながら。

と、ほんのりせつないラストにしてみたけれど、有難いことに母はバリバリ健在である。勝手に昇天させてはいけない。相変わらず適当なひどい娘だが、今なら母に言えることがある。もし、たった2割だったとしても、家族を愛して毎朝起きてくれて本当にありがとう、ということ。
いや2割より多いわ!!!というツッコミの声を、久しぶりに聞きたい。


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