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「腸活」についてのトポロジー的考察

最近、「腸活」という言葉をよく聞く。
そもそも現代社会の病理は、あまりにも「脳」に比重を置きすぎたことから生じてきた。養老孟子の「唯脳論」を待つまでもなく、実存主義者サルトルの「嘔吐」は現代人の腸内環境の劣悪さを暗示している。
その意味において、「腸活」は単なる健康法にとどまらず、「脳化」した哲学をはじめ文学や科学が直面する閉塞感を爆破して新たなパラダイムを創造するダイナマイトの導火線になりうるように思う。

腸をひっくり返すと、それは植物の「根」になるという。
よく考えてみれば、小腸の柔毛の構造は、植物の根の根毛の構造に似ている。どちらも栄養分の吸収を最大化するためにフラクタル性を利用している。
人間は食事の栄養分だけでなく、「大地」にあたる腸内環境を構成する数百兆の微生物群によって生かされ、常に影響を与えられている。それは植物が土の豊かさによって枯れたり栄えたりするのとまったく同じである。

左が小腸の柔毛、右が植物の根毛。

この「ひっくり返す」という表現が興味深い。きわめてトポロジー的である。
この感覚を伝えるために、四次元の卵から黄身を取り出す話をしたい。
通常、私たちの感覚では、卵の殻を割らずに黄身を取り出すことはできない。だが、円に囲まれた領域から中にあるものを取り出すことは難なくできる。「上に」ひょいっと「持ち上げれ」ばいい。
(これを数学的に表現すると、3次元存在である人間は、2次元球面の内部と外部をまたぐことはできないが、1次元球面の内部と外部を、それが属する平面と直行するもう一つの次元を使ってまたぐことができる。)

四次元から卵を取り出す

同様に、四次元の存在が卵から黄身を取り出すには、四次元方向に「またぐ」だけでいい。
(ちなみにドラえもんのひみつ道具で「スイカの中身を割らずに吸い取るストロー」があるが、これも四次元的だ。)

「ドラえもん」にはトポロジー的洞察が満ちている

トポロジーといってもただこれだけなのだが、人間の肉体というものはおしなべてこのように、「宇宙」をトポロジー的に飲み込むように設計されているように思う。
母胎がその例だ。赤ちゃんは母親の母胎の中の羊水に包まれて育つが、それは生命が海から誕生した際の名残であるという。つまり、「母胎」とは「人間の中に飲み込まれた海」なのだ。
ちなみにトポロジー的に見れば、人間はトーラスと同相だ。圧縮すれば消化管になる。腸は大地であり、母胎は海。人間はすべてを飲み込む。

おそらく、人体を3次元的に見るのは間違っている。
次元を上げてみれば、人間は大地に「生えて」いるのであり、常に栄養を大地から吸収しているに違いないのだ。

しかし「脳化」した人間は腸を無視し、無意識のうちに周縁に追いやった。現代社会の「ウンコ」に対する嫌悪感は、腸への軽視に裏付けられている。尿も同様だ。どちらも強烈なニオイを放つ。だが原始時代以来の人類のパートナーである犬がこの「強烈なニオイ」の中にハードコードされた情報を精密に解析し、社会的コミュニケーションを行っていることを知ると、排泄物もあながちバカにできないことに気づく。

近代の思潮の中で、ニオイについて「原始的・汚らわしい」というイメージがついたのは、フロイトがきっかけだと言われる。彼は「人間は二足歩行動物になることで、鼻を地面から遠ざけた。それが文明人の証だ」という趣旨のことを言ったそうだ。地面を嗅ぎまわる犬はさぞ原始的に映ったに違いない。なんという知的盲目だろうか。

腸の軽視、菌類への忌避感、匂いと嗅覚への侮蔑、これらはいずれも、脳の重視、構造的秩序への傾倒、光と視覚への偏重と同時に起きている。
マイクロバイオームの多様性に目を閉ざし、自らの体内環境と外部の自然環境との不断の対話から目を背け続ける文明は、いずれ「枯れる」ことを運命づけられているに違いない。
現代社会に必要なのは外科手術ではなく、腸内洗浄だ。

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