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巨大キノコの夢の中で暮らす

「この世界は一つの巨大なシミュレーションである」
とする「シミュレーション仮説」は、イーロン・マスクの支持もあり最近のもっぱらのトレンドである。
だが私にはこの仮説がどうしても胡散臭く思えてならない。
そこで、ここに「キノコ」の知恵を加えて、「巨大キノコ仮説」を提唱したい。

哲学者ニック・ボストロムが提唱した「シミュレーション仮説」には、西洋人の機械的・自我的・一神教的世界観から抜け出し切れていないがゆえの「臭み」を感じる。
「果たして、シミュレーションを行うのは、我々より遥かに発達した未来の人類なのか? 異星人なのか?」 
彼らのこうした議論は、幼稚に思えてならない。

多神教に親しむ東洋人として私は、この宇宙が、その中に住む我々とは切り離された一つ(または複数)の人格によって運営されているとはどうしても実感できない。
むしろ「宇宙樹」の比喩のほうがしっくりくる。「宇宙樹」概念においては、幹と枝葉は一体であり、階層構造の上部にある意識が下位の意識に生命エネルギーを供給し、有機的に宇宙が運営されている様子が描写される。
だがこの比喩でもまだ、いかにして私たちが経験する「物理的時空間」が生成するかといった視点が欠落しているように感じる。

ここからは私の妄想である。
「巨大キノコ」の概念はこの「宇宙樹」概念の拡張版である。「認識」の原始的単位であるキノコの菌糸はお互いに絡み合い、巨大かつ深遠なネットワークを構築している。
キノコにおける菌糸一本一本は、「見る」「見られる」の関係を生み出す「認識」の糸である。この認識の糸が絡まりあうことによって、一つの共同幻想としての物理的時空間が菌糸の間で内部生成される。我々一人一人の「自我」は、この菌糸が絡み合って構成される一つの子実体(目に見える形の「キノコ」一本のこと)に該当し、周囲の数億個の子実体とともに共同幻想を経験している。ここにおいて根本単位は「認識」であり、時間も空間もその「認識の視神経」一本一本が帯びる副次的な属性に過ぎない。

キノコの構造

この比喩はSF作家レムの「ソラリス」の中に登場する「海」の概念にインスパイアされたものだ。惑星全体を覆う強酸性の海が高度な知性を持ち、その内部で「個別的な意識」を構造的に生成して人間とコミュニケーションをとる場面があったが、まさにそのイメージだ。だが、「認識同士が織りなす共同幻想」を説明する際に、「水」よりも「菌糸」のイメージの方がふさわしい。

ソラリスの「海」のイメージ

また、この比喩はリクールの「テクスト」概念にもインスパイアされたものだ。リクールは、ある人間の思想は、彼個人の中で生み出されたものではなく、過去に生まれた様々な思想の「糸」を使って新しく編みなおされた「織物」にすぎないと考えた。ゆえに、フランス語において「織物」を意味する「テクスト」という言葉を用いて、人間の思想を表現したのだ。これは、人間の思想にとどまらず、人間存在の本質を表現した言葉と言ってよいだろう。現在我々が感じている「私」としての自我は、我々の過去に生きた人類、そして未来に生きるはずの人類の認識の糸が織りなす一つの織物にすぎない。

巨大キノコはただそこに在るのであって、時間も空間もその中に内包されている。キノコのネットワークは階層構造を持ち、「ウッド・ワイド・ウェブ」と呼ばれるその構造の中には、シミュレーション仮説を信奉する人々が考える高度な「MMORPG」状の共主観幻想をホストするに足る計算を可能にするアーキテクチャが存在する。シミュレーション仮説が「運営者」を必要とするのに対し、キノコはキノコ自身によって分散的に自己組織化されるのであって、そこに運営者は必要ない。(もちろん、「キノコをあらしめんとする意識」としての「神」は存在する余地がある。)

「巨大キノコの夢の中に暮らしている」、と想像すると奇妙な感じがするかもしれないが、「シミュレーションの中にいる」よりかは私は遥かに安心するし、腑に落ちる。私たちは、シミュレーションを運営する高次な認識によって運営される世界に受動的に住まわされた「ゲスト」ではなく、むしろ過去・現在・未来の時空間を能動的に自己組織する幾千億の視神経の束の一つなのである。

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