惜春

 もう緑になったよ、と打ってから消した。
 送っても意味なんて無い。きっと返信だって来ない気がしていた。
 彼がこの部屋を出て行ってから三ヶ月が経っていた。



 小さい炬燵で向かい合って餅に包まれたアイスを食べていた。彼はふと手を止めて、
「少しの間家を空けるね」
 と言った。
 友人が心の病に罹り、家から出てこなくなって一月が経つのだという。学生時代仲良くしていたのもあって放っておけないんだ、大学を卒業してから様子がおかしくなっていったのには気付いていたから罪滅ぼしみたいなところもあるんだけどね、と彼は言った。
 君がそんなに気にかける必要は無いんじゃないのと思いつつ、声には出さなかった。
「桜一緒に見ようね、それまでにはきっと帰るよ」
 そう言って、カーテンの向こうを指差した。この部屋のベランダはちょうど桜並木に面していた。
「いいかな」
 他人を思いやれる優しい優しい彼。首を振るなんてできなかった。

 だんだん暖かくなって、そろそろ衣替えでもしようかなとクローゼットの中をひっくり返していた時だった。彼のコートのポケットに紙が入っているのに気が付いた。一緒にクリーニングに出しといてあげよう、そのためには中身出さなきゃいけないもんねと理由を付けて、それを抜いた。
 くしゃくしゃになったレシートだった。日付は一月の終わり、ちょうど彼が出ていく前日。裏には走り書きされた電話番号があった。
 スマホを取り出してアドレス帳を開いた。メッセージアプリが主流になった今では使用頻度の低いツール。中学や高校の友人くらいしか登録されていない。
 やけに心臓がドクドクと鳴っていた。壁にかけてある時計の音も、外を歩く小学生の声も、強い風に吹かれて揺れる葉の音も、何も聞こえないくらいに。
 しばらくスクロールして、ある名前を見つけると指を止めた。嫌だ、と目を瞑りながらタップする。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

…………ああ。

 大正解だった。走り書きと同じ番号が並んでいた。
 染井美乃。
 桜と同じ名前なの、覚えやすいでしょ? と笑う彼女の顔がはっきりと思い出される。同じ中学出身の彼女は、高校の時、彼の恋人だった。別の高校だった私がそのことを知ったのは大学で彼と出会ってからで、なんてことない狭い世界で起きるただの偶然だった。

 気付いていた。
 私は、彼の心の中にあの子がいることを知っていた。私が中学の頃の話をするとやけに興味を示すのも、テレビで桜の開花予想が放送されると少し気を取られるのも、何よりも、このレシートが証拠だ。でも。
 一気に力が抜けてその場にへたり込んだ。窓の外で満足げに花開いているのは揃いも揃ってソメイヨシノだった。


 ねえ、もう、緑になったよ。
 先月あたりからついに連絡が途絶えた。この部屋には君の服も鞄も靴も全部全部あるのに、持ち主がいないせいでひどく寂しげだ。
 ところで君は、ここにあるのが全部ソメイヨシノと知っていて私と見ようと言ったの? と心の中で尋ねる。当たり前のように無い返事。きっともう来ない返事。
 最後のメッセージは、私からの「暖かくなってきたね」だった。

 この部屋の更新が近付いている。今度住む部屋は桜なんて見えないところと決めていた。
 ボーッと眺めていた窓の外で、強い風に吹かれて最後の花が落ちた。あれを踏む程度じゃバチなんて当たらないはずだ、きっと。
 塩辛い風味が口元を通り過ぎて行った。

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