パンは武器には向かない

 何か新しいことがしたいな、とホームベーカリーを買った。パンを食べたいなと思って。そう、ふわふわのパンが食べたかった。あの、フランスパンみたいな、硬いのじゃなくて。

 それを使ってあいつを殴ったのは二日前の話だった。
 あいつが、シチューが好きと言ったから。そしてその日はあいつの誕生日だったから。私はアパートの近くにあるいつものところじゃなくて、駅前の百貨店にある少しお高めなパン屋に行ってそれを買った。その店一番人気の馬鹿みたいに硬いフランスパン、一本。
 本場の人みたいにフランスパンが三分の一くらいはみ出した紙袋を右腕に抱えて、左手にはじゃがいもやにんじん、玉ねぎの入ったビニール袋を持って、駅から家までの道を歩いていた。ルウは向こうの家に買い置きしていた。ヨーロッパの街並みを意識した石畳の通りは普段は気取っているようにすら感じるのに、その時の私は気分が良くて、映画の主人公にでもなったかのような心地だった。
 角を曲がってすぐのところにある、お気に入りのカフェの前に差し掛かるまでは。
「ふふ、じゃあね」
「うん、また」
 店から出てきた一組の男女の、男の方に見覚えがあった。私より少し若いくらいの小綺麗な女が、別れの挨拶にと男の頬に軽く口付けした。たちまちここが映画のワンシーンのようになる。そう、泥沼恋愛映画の。
 私がいるのと反対の方向に歩いていく女を、手を振って見送る男、佑磨の頭に後ろから思い切り叩きつけた。馬鹿みたいに硬い、フランスパンを。
「いっ……てえ!! 何だよ!」
 頭を押さえながら振り返った佑磨は私に気付くなり、すぐさま顔を青くした。
「何だよはこっちの台詞なんですけど」
 今日はそっちの家に行くねと連絡をしたら、「ありがとう、待ってる」と返信してきたくせに。この前会った時、もうすぐ一年経つねって嬉しそうに話してたくせに。
「自分で作って一人で食ってろ馬鹿!」
 持っていた食材全部を佑磨に投げつけた。フランスパンは吸い寄せられるように、また、頭に向かっていった。ポコン。いってえ!

 そんな最後。それなりに満足している、スカッとしたし。
 目の前には一万円弱で手に入れた例の機械がゴウン、ゴウンと音をたてている。焼きに入ってもう二時間くらい経っていた。
 何回も練習してやっと美味しいと思えるシチューが作れるようになったのに、無駄になってしまった。本当に、本当にあいつのためだけのシチューだったのに。しばらくシチューなんて見たくない。シチューに罪はないけど。全部あいつのせいだけど。
「ごめん、本当にごめん」
 と、あの後すぐに謝罪の電話があった。
「俺、一人でカレー作ったからさ、食べに来てよ。話がしたいんだ」
 なんて、何もわかってない。馬鹿、とだけ返して切った。こちらにはもう何も言い分はない。それに、向こうに一つの言い訳もさせるつもりはなかった。帰り道に少し泣いたぐらいだけれど、私は結構あいつのことが好きだったのだ。絆されてしまうような気がしていた。

ピー、ピー。
 何だかだいぶ待った。材料を買って家に戻って来たのは昼過ぎだったのに、パンが焼き上がったのはもう日も落ちた頃だった。下調べも何も無しに事を起こしたので、こんなに手間がかかるとは思っていなかった。
 ミトンでパンケースを取り出す。まな板の上でひっくり返すと案外素直に出てきた。熱さに耐えながら半分にちぎり分けると、モワッと湯気がたってパン屋に入った時のあのいい匂いが香った。
 ふわふわでホワホワ。自家製パン、結構良いじゃん。
 大口を開けてお迎えしようとした時、インターホンが鳴った。タイミングの悪さに舌打ちしながらパンを片手にモニターを覗き込むと、佑磨がいた。
「何の用」
「謝りに来た。俺、やっぱり」
 私は、結構こいつのことが好きだったので。自分がきっと絆されてしまうだろうとわかっていた。一方的にモニターを切ってその先は聞かないことにした。
 ドアの向こうから聞こえる佑磨の言い訳から意識を反らすように、手に持っていたパンにかぶりついた。むしゃむしゃと、いつになく真剣に。わかりもしないのに小麦の味がどうとか、発酵がどうとかそんなことばかりを考えるようにした。気づいた時にはドアの向こうから佑磨の気配は消えていた。ちょうど最後の一口だった。
 まな板の上に残り半分が転がっていた。もうお腹はいっぱいだった。何より、あいつのアパートの近くにあるいつものパン屋の方が何倍も美味しかった。
 ふとベランダに近寄ると、窓の向こうに離れていく佑磨の姿が見えた。最後だと思えば思うほどその後ろ姿が愛おしくてしょうがなくて、それが何だか悔しいのだった。


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