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散文 / 銭湯が嫌い

私は最低でも週に1度は銭湯に行く。
しかし、私は銭湯が嫌いだ。

週1銭湯生活を始めてもう2年くらい経つが、一向にあの異様な空間に慣れない。

みんな裸。みんなみんな裸。すっぽんぽん。きゃー


そりゃそうだって感じだろうが、みんな裸であることに毎回新鮮に驚いてしまうのだ。
ここまで銭湯嫌いの私がなぜ嫌々毎週行ってるのかというと、交互浴は健康に良いという情報をキャッチした母と祖母に連れられてるのと、私自身もダイエットや美容に良さそうという根拠のない美意識に囚われてるからだ。書き出してみたらくだらない。そんな理由のために週に1度の我慢大会を行っているのだ。

私が通うところは昔ながらの小さい銭湯ということもあって常連が多い。
初めて行った時にはそれはそれは珍しがられた。
私がシャワーを捻った時も、どの風呂に入ろうか迷ってる時も、水風呂まで移動する時にも、監視されてるかのように彼女達の目線が動くのだ。もう彼女達がミーアキャットに思えた。

私は裸を見るのも見られるのも苦手だ。というのも私は身体にコンプレックスが多い。ニキビだらけの顔と体、大きなほくろ、小さい胸、全てが恥であり、家族にさえも見られたくない部分なのだ。いや家族だからこそ見られたくない。
みんなが体を洗うために持参する細長いタオルは、私にとっては体を少しでも隠す最後の砦、くらいのレベルなのだ。

裸を見るのも超苦手だ。
風呂に浸かりながら、色んな人が体を洗ったり、サウナで汗を流したり、最も無防備な状態で次に入る風呂を探す光景は、まさに裸パラダイス。もちろん色んな年齢や体型の人がいて、人それぞれ全く違う造形であり、それがゆえに生々しいと感じてしまうのだ。そしてそれを友達に遊び半分で見せられたアダルトビデオのハーレムものとリンクしたりしなかったりする時があるのだ。
そんなこと考える私も今、真っ裸で、その一員と化してるのだが。
だから私はいつも銭湯に行く時コンタクトを外して、出来るだけ視界をぼんやりさせておく。ギリギリ人と認識できるくらいの印象派絵画みたいに。視力が良くなくてよかったと心の底から思ったのはこの瞬間だけだろう。


銭湯嫌いの私が最近ぶち当たる壁がある。
常連の猛者達がコミュニティに入れてこようとするのだ。ミーアキャットに監視されながら風呂に入っていた銭湯初心者は2年も経つと「仲間」に認定される。
たまったもんじゃない。「仲間」と認識された瞬間に、友達以上家族未満になる。初対面から真っ裸という特殊な出会い方をしているからだろうか、最近はむしろ服を着ている姿を見る方が不自然だと思える。

「あれ、今日はすっぴんで来たんだ」
「どこの大学行ってるの?」

やめて〜!
私は湯船に浸かりながら好きな芸能人と付き合ったらどうするとかいう品のない妄想や、周りに聞こえるか聞こえないか位の音量でX JAPANの紅を歌い切れるかとかのくだらないことをしていたいのに。やめて〜!

止まらない。銭湯の悪口が止まらない。
側から見たら週に1度は銭湯に通う銭湯愛好家だというのに。
今週も銭湯という我慢大会に行くと思うと今から憂鬱だ。こんなに嫌なら行かなければいいのだが、何となく「銭湯で汗を沢山流して美意識高い自分」を錯覚したい気持ちと「祖母と母からの圧」に負けてしまう。


銭湯の愚痴を言いながら今週も裸になる。細長いタオルを最後の砦の様に持ちながら。


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