【原文の読書】で著者が生きる時代へ
こんばんは。しびれる古本屋でございます。
現在、講談社学術文庫の「五輪書 (鎌田茂雄著) 」を読んでます。以前パラパラと目を通したときは難しく、理解が及びませんでしたが、今回は腰を据えてとりくんでいるので、なんとか読みすすめられています。
この本は硬い本にありがちな、まず最初に「原文」、そのあとに「訳文」、そのあとに「解説」が続くというスタイル。
できるだけ原文を読んでから解説と訳文を読むようにしていますが、難しすぎる文章に関しては先に訳文を読むこともありますし、場合によっては原文と訳文を行ったり来たりと柔軟に読書を続けています。しかし、できるだけ原文で意味を理解してから次にすすむよう心がけています。
ただ、この原文を読む読書方法は、読書から情報やノウハウだけを得ようと考えたらとても非効率。訳文と解説だけ読んだ方が時間を短縮できます。とはいえ、今から378年前の剣術のノウハウが、そもそも現代に役立つのかと考えれば、非効率以前の問題かもしれません。
しかし、原文の言葉には読みづらい凸凹がある。それが読むために言葉と格闘していると、言葉の凸凹が僕の中のなにかにぶつかり、キズを残します。
この自分のなかにキズをつけながら読みすすめることが、本の内容を理解するだけでなく、読書体験を丸ごと記憶に留めることにつながります。「あの言葉は意味がわからなかったなぁ…」とか「本質がわかったときに感動した!」という感情の記憶ごと自分の中に残るような感じです。
しかしこのような読書方法、なんの意味があるのでしょうか?もし仮にサッカーの古文があったとして、それをネイマールが読んで理解する必要ってあるのでしょうか?絶対にないですよね。そのように考えると、自己満足以外になんの目的があるのか読書に迷いがうまれます。
しかし、そこで「原文を味わうとはどういうことだろうか?」と考えてみる。
一つだけ閃きました。
原文で読むということは、著者が生きる時代まで遡り、著者に共感しながら読むということだとおもいます。訳文でも読めますが、より共感できるのは、その当時の言葉であるはず。
そしてさらに音読して読む。すると、言葉のリズムに意味が宿ってくる。剣術の天才が自分の人生をかけて記した言葉。そのリズム。もしかしたら、そのリズムからも、著者の宮本武蔵を感じることができるかもしれない。(まだ僕は感じていませんが…)
そして五輪書には宮本武蔵がこの本を書いた経緯が記載されていました。それを元に宮本武蔵がひとりで筆をとり、この「五輪書」を書いていると想像しながら読む…それも趣があります。
これがきっと原文を味わうということなんでしょうね。
徹底的な合理主義を解く「五輪書」を、非合理的に読むということは、道理にかなってない気もしますが、僕はその意義をこれから見つけたいとおもいます。
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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