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あなたの教育・勉強の概念を5分で変えます

教育の理想と現実

 本来人間が持つ学習能力を発達させるための訓練として重要な意味を持っていた「勉強」、それを手助けする「教育」の本来の意義は社会の流れによって失われつつあります。

 元々「教育の目的」は、門地や性別などに関係なく一定以上の学習を受けさせる
ことによって国民の質を高めることであり、いわば「下限を上げる制度」でした。

しかしながら、教育の浸透により勉強が社会の一つの重要な評価基準になった近現代では、いかに「上限を上げるか」という点のみが重要視されています。

そこで問われるのは
今まで見たことがない問題に対して今ある知識でどう立ち向かうか」ではなく、「今まで見たことがある問題の解き方を思い出せて再現できるか」です。
いわば「知識ゲー」ですね。
点数主義」という言葉が大変よく似合う機械的な問題だと思います。

 そんな「点数主義」の社会の流れの中で、本来勉強というものの本質を伝えるべき立場にある「教師」は労働環境の悪さからそんなこと考える暇も与えられずに、社会からの評価である「合格した生徒の数」のみを追い求め日々身を削る傀儡になっていると感じています。


「有名大学なのに無能」という言葉


 「有名大学なのに無能」のような言葉を聞いたことはありませんか。

 この言葉は「学歴=能力」という現代社会の教育・勉強観を表しています。

 しかしながら社会の教育に対する幻想と現実の教育課程には乖離があります。

 それは「有名大学なのに無能」が多用される言葉であるということです。

 自身が今まで通ってきた教育課程によって、無意識のうちに
「点数こそが正義」
「点数を取る努力が自分の能力を伸ばすことにつながる」
「学歴こそ自分の証明方法」
 という幻想を勝手に抱かされているわけです。

 そうして勝手に身についた「点数主義」のせいで、社会に「学歴=能力」という観念が生じ始めた結果、現代になって社会の教育に対する幻想と現実とに乖離が生まれているわけです。

 前の記事でも述べたように、私は「勉強」の本来の目的・意義を
自己の学習能力、学習パターン、考え方の癖や苦手な思考分野を理解すること
 にあると考えています。

 本来の目的が達成されれば、「点数」は結果として勝手についてきます。

 勉強は本来もっぱら「自己能力の理解、研鑽のための手段」であり、その達成度として結果的に「点数」として可視化すべきです。

 にもかかわらず、現代では目に見えやすい「点数」を重要な指標として設定したために、勉強の目的と手段が入れ替わっていると思います。

「自己の学習能力、学習パターン、考え方の癖や苦手な思考分野を理解すること」
 これが意識できたら絶対に点数は上がります。

 私自身この意識で勉強を行い偏差値72までいけましたし、あまり勉強が得意ではない私の生徒達も総合で1年で100点以上点数が上がっています。


 ここまで勉強や教育について批判的なことを言いましたが、決して努力している方達を馬鹿にするような意味は含まれていません。
 私も文才がなく、駄文ばかりですのでこれからも頑張ります。

 努力しているあなた達を私は遠くから応援しています。

 







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