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最近読んだ本のこと

小説も好きだけど、エッセイも負けないくらい好き、という作家の方が何人かいて、
20代に夢中になった人が多いなと思う。
(村上春樹さんと江國香織さんと吉本ばななさんが、その筆頭な気がしてる)

最近は、村上春樹さんの雑文集を読み返した。



村上春樹さんの文章は、深い森みたいだと思う。
とても入り組んでいて、長居したくなる静かな森。

たくさん翻訳も手掛けてるから、海外の有名な作品にも触れられていて面白かった。

なかでも素敵だと思ったのは、スコット・フィッツジェラルドについて書かれている箇所のこと。



しかし作家フィッツジェラルドの素晴らしい点は、現実の人生にどれだけ過酷に打ちのめされても、文章に対する信頼感をほとんど失わなかったことにある。彼は最後の最後まで、自分は書くことによって救済されるはずだと固く信じていた。妻の発狂も、世間の冷ややかな黙殺も、ゆっくりと身体を蝕んでいくアルコールも、身動きがとれないまでにふくらんだ借金も、その熱い思いを消し去ることはできなかった。
来るべき新しい作品こそが、それを生みだそうと苦悶する自らの魂の輝きこそが、彼を導く遠い灯台の明かりだった。ちょうど『偉大なるギャツビー』の主人公であるあの不幸なジェイ・ギャツビーが、入り江の向こう岸に点滅する灯台の光を唯一の頼りに、汚濁に満ちた世界を懸命に生きつづけたのと同じように。


『偉大なるギャツビー』は村上春樹さんの訳で、大学生のときに読んだ。
(この人が翻訳していなければ、おそらく読んでいなかった海外の作品はたくさんある。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も、『フラニーとズーイ』もとても好き。グレイス・ペイリーの短編集も)


来るべき新しい作品こそが、それを生みだそうと苦悶する自らの魂の輝きこそが、彼を導く遠い灯台の明かりだった。


とくに惹かれたのは、この箇所。
それほど切実に書きたいとただ希う気持ちが、良質な作品を生むのだろう。


村上春樹さんの本には図書館がよく出てくるけれど、
(印象的なのは『海辺のカフカ』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)
それについても書かれている。


図書館は今にいたるまで、僕にとってとくべつな場所であり続けている。僕はそこに行けばいつでも、自分のためのたき火を見いだすことができた。あるときにはそれはささやかで親密なたき火であり、あるときにはそれは天をつくような、大きな、勢いのあるかがり火だった。
そして僕はそのような様々なサイズとかたちのたき火の前に立って、身体や心を温めてきた。僕は小説家として、図書館を舞台にした物語をこれまでにいくつか書いているが、それは言うまでもなく、図書館というところが、僕にとって大事な意味を持つ場所であったからだ。


引用が長くなるけど、もうひとつ。



図書館とは、もちろん僕にとってはということだけれど、「あちら側」の世界に通じる扉を見つけるための場所なのだ。ひとつひとつの扉が、ひとつひとつ異なった物語を持っている。そこには謎があり、恐怖があり、喜びがある。メタファーの通路があり、シンボルの窓があり、寓意の隠し戸棚がある。僕が小説を通じて描きたいのは、そのような生き生きとした、限りない可能性を持つ世界のあり方なのだ。


図書館という場所が持つ親密さや拡がりを、私も子供の頃から感じていたんだろうなと思う。

何より本棚が整然と並んでいる空間が良い。
(書架に囲まれてると落ち着く)
図書館ってある意味、この上ないパワースポットだと思う。
(少なくとも、私にとっては)

その「特別な有りよう」が言葉にされていて、
嬉しかった。
あらためて言うまでもなく、図書館はとても特別な場所だ。


司書になって3ヶ月。

図書館が舞台の小説はたくさん世に出てるけど、自分でも書いてみたいと思う。


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