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(小説)ごめんなさい 7


最初から

まえのやつ



7




「この店は母方の祖父の店なんですけど」


成瀬さんが泣いた日から二日後に、ようやく彼が私に話しかけてくれた。
緊張したような、硬い声色。思わず私まで緊張してしまう。


「父が十年前に事故で亡くなり、母はそれからおかしくなってしまって、今精神病院にいます」

「………はい」


いきなり重い話が始まったぞ。私も彼に生い立ちを話したことがあるので、人のことを言える立場ではないが。
こじんまりとした古本屋のカウンターに二人で並んで、しばらくそろって黙り込んだ。ちらりと成瀬さんの顔を見上げてみたら、ちょうど彼も横目で私を見ていた。


「父は真面目な人でしたし、悪意で他人を傷付けたりする事はほとんど無いような、真っ直ぐな人でした」

「うん」

「悪意ではなく善意、相手のためを思って、正しい事を教えてあげなくてはと、そう考えて母や僕に厳しくすることは多かったんです」

「........」

「絶対に悪い人では無かったんですけど、優しい人ではなかったんです。
いつも、自分の間違いを淡々と挙げられ、逃げ場の無い気分でした。確かに僕が悪いんですけど、その間違いから話が波及して、僕の考え方や、やりたいこと、色々なものを論理的に否定されていくんです」


チクリと、心臓に針を刺すような痛みを感じた。大袈裟に鼓動が高まり、声を出そうにも出せない。苦しい。
私と同じだ。夫と同じだ。絶対に悪い人じゃない。ちゃんと私と向き合おうとしてくれている、その結果、私の我慢が足りないせいで私が精神的に追い詰められてしまっている。


「母にはもっと酷かったです。家事の不備を一日に何十個も指摘され、泣くまで説教されて。しかも子供の僕の前でです。恥ずかしかったでしょうし、僕に対して申し訳無い気持ちもあったでしょうね。
父に怒られないように、母は一日中家を掃除し続けていました。何度も掃除機をかけ、何度も同じ所を拭いて、洗い物も何度も繰り返していました」

「それはもう、その時点で、」

「........まぁ、そうですね。充分、」


充分、おかしくなってた。
そして気付いた。自分もそうなり始めているのでは?

パートに出ているのであまり家事は出来ないが、家に居る間に掃除機をかけて、その後また不安になってもう一度掃除機をかけて、更に不安なので雑巾で床を拭く........なんてこともよくある。日に日に増えるとまでは言えないし、気が向かないときは全然しないこともあるので、成瀬さんのお母さんよりは大分ましではあるが。そこは性格の違いもあるのだと思う。



10年前、彼が15の時に父親が亡くなった。自動車の事故だそうだ。
やっと解放された、と成瀬さんは最初に感じた。しかし彼の母親は違った。

彼女は己を否定し続けられる事に慣れ、それが当たり前のことになっていた。もうこの世に彼女を否定する人は居ない。
自己肯定感の低い人間は、常に自分の間違いを指摘してくれて、かつ簡単に見捨てないでそばに居てくれる人を求めてしまうことがある。


一年もしないうちに成瀬さんの母親は精神を病み、入院した。それ以来彼は祖父母と暮らしている。


「三島さんは、大丈夫なんですか?」

「大丈夫というか、まぁ、私も慣れてしまってはいますよね」


夫と会うよりも前から、物心ついた時から、私は否定ばかりされてきた。思えば、家族にも夫にも、まともに私の意見を聞いて貰えたことがないように感じる。

他の人、パート先のおばさん達や、........成瀬さんのほうがずっとずっと優しいし、同じ人間として礼儀正しく、人格を尊重して貰えていると感じる。それなのに、どうしても不安が拭えない。


優しいと逆に不安になる。

表向きだけ優しくしているだけでは、内心では私に対して不快感を抱いているのではと、常に己を追い込むようなことばかり考えてしまう。安心してしまうと、それが無くなった瞬間の喪失感が大きいから。
だから常に優しい人を疑う癖がついてしまう。しつこいほどに疑い、相手が嫌がって遠ざかる。そうして「やはり他人を信じてはいけないのだ」と、間違った考えを強めてしまう。人が私から離れていくのは、ただの自業自得なのに。それも理解してはいる。しかし感情が伴わない。恐怖心のほうが理性よりも強い。

だからこそ、今まで私は人と一定の距離を保ってきたし、優しい人が手を差し伸べてくれても自分から逃げた。人の優しさが怖いから。


「僕には無責任なことは言えません。けど三島さんが幸せであることを願ってます」

「........はい」

「きっと、“その部分”も含めて旦那さんの事が大事なんですもんね。僕も一概にそれが短所だとは断言できません。
 僕の父も三島さんの旦那さんも、少なくとも我々に正しさを教えようとしてくれているのは確かです。やり方が少し不器用なだけで」

「はい」

「それに我々が耐えるか、もしくは耐えきれずに壊れるか、そう考えると長続きさせたいとは思えないですけど。それに僕の母は耐えたというより、依存してましたしね」


そこまで話すと、成瀬さんは口を噤んだ。一度私の方をじっと見ていたのを感じたが、恥ずかしさのあまり顔を上げられず、結局気付かないふりをした。

恥ずかしいし、分かってる。........分かってるのに、自分で自分を救うことに気力が湧かない。別に周りの人が平気なら、私一人が辛いくらいのことはどうでもいい、そう感じてる。

自分の幸せなんてどうでもいい。ただ生きてるだけ。死にたくても死ねないから、仕方なく生きてるだけ。腕を掴んで引っ張ってくれる人が居れば、それはそれで楽だからいいのでは........と。つまり寄生、依存、そう言える。

自覚してる。ただ変化が怖い。
自分が今まで慣れていた感覚が間違いだとしても、それのおかげで心の平穏が保たれてきた期間が長すぎた。針のむしろの座り心地が最高だと、長年刷り込まれてきた感覚だ。家族や夫から、経済や生活の面を守られる代わりにサンドバッグに近い存在として扱われる。それが今までの私の「当たり前」なのだ。生活能力の無い私には、それしか道がなかった。

つづく


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