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書籍『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』

エレーヌ ペイゲルス (著)  荒井献 (翻訳)  湯本和子 (翻訳)
出版社 ‎ 白水社‏
発売日 1996/06/25
単行本 305ページ



目次

第1章 キリストの復活に関する論争―史実か象徴か
第2章 「唯一の神、唯一の司教」―唯一神教の政策
第3章 父なる神、母なる神
第4章 キリストの受難とキリスト教徒の迫害
第5章 どの教会が「真の教会」か
第6章 グノーシス―神認識としての自己認識


内容紹介

 死海写本と併せて、今世紀(20世紀)最大の考古学上の成果といわれるナグ・ハマディ写本の発見経過とその意義を、気鋭の女流学者が劇的に解明する。

帯より


レビュー

 1945年12月、エジプト。
 ひとりのアラブ人農夫ムハンマド・アリーが、ナグハンマーディーという街の近くジャバルアッターリフの、4300年の昔より既に墓所として使用されていたという洞窟にて、大きな壷を掘り当てた。その壺の中には皮にて装丁された13冊のパピルス本と閉じられていないばらばらのパピルス紙が入っていた。
 その価値を知るよしもない農夫ムハンマド・アリーは、アル・カスルの自宅に戻り、これらの本と閉じられていないばらばらのパピルス紙を、かまどのそばに積み上げてある藁の山の上に置いた。
 後に、ムハンマド・アリーの母親のウンム・アフマドは、火をつけるために用いていた藁と一緒に、このパピルスの紙の大部分を燃やしたことを認めた。

 しかしこの大部分が燃やされてしまったパピルス群こそが、現在のキリスト教の歴史(「正統」を自称する権力により都合よく捏造された歴史と教え)を根底からくつがえす可能性を秘めた最も重要、且つ価値ある資料、ナグ・ハマディ写本であり、世紀の大発見であった。
 ※この大発見により新約聖書、初期キリスト教史研究、キリスト教グノーシス思想そのものの実態解明が、大きく進展した

 ナグ・ハマディの写本には、「異端」とされ迫害されたキリスト教グノーシス派の文献が、キリスト教グノーシス派側からの言葉により、その内容をゆがめられることなく大量に含まれていた。
 ナグ・ハマディの写本発見以前のグノーシス派の資料は、現在最も流通している聖書の内容を「正統」と主張する(ヴァチカンを始めとする)権力機関により、相当な「改ざん」と「削除」を受けた上での「歪められた」ものであり(ナグ・ハマディ写本の発見によりその汚いやり口が白日の下に晒されました)、キリスト教グノーシス派の資料としては殆ど価値をなさないものであった。
 しかしナグ・ハマディ写本の発見により、この「歪み」は正され、さらにはグノーシス派による「正統」派への批判の声を、権力者の「改ざん」も「削除」も無しに、直接聞くことの出来る状況がもたらされた。

 歴史を書くのは勝利者である。
 しかも歴史は勝利者の道筋なのだ。とすれば、成功した多数派の観点がキリスト教の起源に関する伝統的記述のすべてを支配して来たことも、何ら不思議なことではない。多数派の教会に属するキリスト教徒が最初に用語を定義した(自分たちを「正統」と、彼らの論敵を「異端者」と名付けて)。次いで、彼らはさらに進んで、彼らの勝利は歴史的に不可避的なことであった、あるいは、宗教用語で換言かんげんすれば、それは「精霊によって導かれた」、と宣言した。
 こうして、少なくとも自己満足を得たのである。
 しかし、ナグ・ハマディにおける発見は問いの根本的立て直しを迫る。この発見は、キリスト教がまったく異なった方向に発展したかもしれなかったことを、あるいは、われわれが知っているようなあのキリスト教はまったく存続しえなかったかもしれないことを示唆する。

本書 236頁「結論」冒頭より

 ナグ・ハマディ写本には、新約聖書にあるイエスの語録も多数含まれているが、それらの語録がこれまでとは違った文脈に置かれており、異なった意味の次元が暗示されていた。
 というか、これまで知られていたいかなるキリスト教の伝承ともまったく違う内容が記されているページが多数あり、例えば次のようなことが記されていた。

 イエスが言った。「あなたがたがあなたがたの中にあるものを引き出すならば、それが、あなたがたを救うであろう。あなたがたの中にあるものを引き出さなければ、それは、あなたがたを破滅させるであろう」

……〔救い主〕の伴侶はマグダラのマリア〔である〕。〔しかしキリストは〕彼女を〔どの〕弟子よりも〔愛した〕。そして彼は、彼女の〔口〕に〔しばしば〕接吻をした。他の〔弟子たちは感情を害し〕……彼に言った、「なぜあなたは私たちすべてよりも彼女を愛するのですか」。救い主は彼らに答えて言った、「なぜ私は彼女を〔愛する〕ようにお前たちを愛さないのであろう」

 このふたつの文章だけでも、「正統派」の騙るイエスとの違いは歴然で、しかもその文章には「処女懐胎」であるとか「身体の復活」であるとかの一般的なキリスト教信仰を、ナイーヴな誤解(有り体に言えば「愚者の信仰」)として批判する言葉も見出されるという。
 ゆえにキリスト教グノーシス派による「聖書」は、「正統派」権力からの弾圧に晒され、「禁書」とされて、「隠滅」と「改ざん」を2000年もの間受け続けるという受難を経験することとなった。

 
 
 話は飛びますけれども、ヨーロッパはもとより、アフリカでも北米でも、オーストラリアでも南米でも、アジアでも、白人が侵略した土地ではイエスを模した偶像はすべからく「白人」の姿をしております(ついでに言うと宗教画に描かれたイエスも)。
 しかしながら、「正統」派の聖書のヨハネ黙示録第1章第14節には『イエスの髪は羊毛状で足の色は真鍮色』と記されています。
 またイエス生誕の地は、現在のパレスチナのベツレヘムとされています。
 イエスは白人ではなかったわけです。
 たぶん「正統」派の教会関係者が聖書を作成する際に、『イエスの髪は羊毛状で足の色は真鍮色』の部分を「改ざん」しそびれたのでしょう。で、かなりの年月を経てからミスに気づくも、原本を訂正(改ざん)するわけにもいかず、さりとてその原本を元に多数作成された写本を訂正(改ざん)することなど出来ようはずも無く、仕方がないから「偶像と絵画を作りまくってばら撒いて、文字の読めない信者達を騙そうっ!」となったのではないでしょうか(今の「CM」や「広告」と同様の視覚による「イメージ戦略」です)。
 そして中世まではその作戦が大成功を収めるわけですけれども、15世紀、教会組織が予期していなかったであろう活版印刷が発明されてしまい、その後数百年をかけて大衆の識字率も上がり、やがて多くの大衆が聖書を所持して熱心に読むようになり「ん?イエスの髪は羊毛状で足の色は真鍮色? ってことはイエスって白人じゃ……な……いっ⁉」と気づかれてしまい……という。
 
 個人的には「姦淫聖書」のエピソードが大好きなのですけれども。

 何を言いたいのかというと、要するに「正統」派によって都合よく書かれた「聖書」というものは出来の悪い小説のようなもので、「様々なオカルトや(科学の発展により完全にバレてしまった)嘘、そして同性愛者差別や女性蔑視等を神の言葉であるとして記している、トンデモ本に過ぎない」ということを言いたいわけです。
 ちなみにキリスト教信者が最も多い国は、アメリカ、ロシア、ブラジルですけれども3国とも軍事国家&民主主義が危うくなってません?
 差別や自然破壊も苛烈ですし。
 ※ナグ・ハマディ写本はまた別の箇所にて完全にイッちゃってるのですけれども、まともなところはめっちゃまともで面白い

 というか、せめてガチの差別表現部分くらいは手直しすれば良いのに……と思うわけですけれども、「聖書言葉」であり「絶対である」と数千年に渡り言い切り、かたりに騙ってきた手前(神の名のもとに数え切れな程の虐殺や文化破壊等を繰り返してきた手前)、今更「あっ、神の言葉って言ってきたけどちょっと間違っちゃってたみたいなんで訂正しまぁ~す😆テヘッ」とは、口が割けても言えない状況にあります。
 もしそんなことをしようものなら、「正統」派教会組織の権威も権力も収入も総崩れとなり、且つ今までの犯罪行為も全て認めることとなってしまうため、自分たちが間違っていたことを完全に理解していても、とにかく絶対に聖書の過ちを認めたり、ましてや訂正することなど出来ないわけです。
 そのあたりのしょうもない理屈は、⇩ のレビューにて取り上げた、抽象絵画の先駆者ヒルマ・アフ・クリントが美術史から除外&無視され続ける理由と酷似しております。
 ※要するに金と権力を手放したくない亡者達が世の中にはウヨウヨいるというわけ

 正統信仰の試金石は、それが教会(という組織)を形成できるかどうかであり、クラブや学派や分派を形成することでも、あるいはたんに、宗教的関心を持つ一連の個人を形成することでもないのである

ヘルムート・ケスター

 話しを戻します。
 本書は40年以上も前に出版された書籍でありながら、普遍的な要素を多数含むため、現在においてもなんら古びることのない、抜群に興味深い内容を誇ります。
 キリスト教に興味のある方。キリスト教や宗教に興味が無くとも、フェミニズムや推理小説等に興味のある方。そして1980年当時の日本の男社会にドップリ漬かっていたのであろう翻訳者の、著者に対する嫉妬とセクハラ発言が本編内のとあるエピソード(131頁)とリンクして面白い「あとがき」を拝読し、この40年の時の流れと社会の変化を肌で感じて微笑みたい方に、おすすめです。

 ムハンマド・アリーが、ナグ・ハマディにほど近い崖ぶちでパピルスで満たされた壺を砕き、その中に金を発見できずに失望したとき、彼は、この偶然の発見が意味するものを想像し得なかったであろう。それが1000年以上前に発見されたならば、このグノーシス文書は、異端的教えのゆえに、ほぼ確実に焼却されていたであろう。
 しかし、それは二十世紀まで隠されたままであった。そして今世紀に、われわれ自身の文化的経験が、この文書の提起する諸問題に対する新しい展望をわれわれに与えたのである。今日、われわれはこの文書を違った目で、たんに「狂気と瀆神とくしん」としてではなく、最初の数世紀のキリスト教徒がこれを経験したように、正統的キリスト教の伝承としてわれわれが知っているものに対する強力な代替として読む。
 今になってようやくわれわれは、この文書がわれわれにつきつける諸問題を考え始めている。

最後に
 ナグ・ハマディ文書「トマスによる福音書」より、好きな一節を引用し、レビューを終えます。

 木の皮をめくれば、私はそこにいます。
 石を持ち上げれば、あなたたちはそこに、私を見出すことでしょう。

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