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私の先輩

ゼミの懇親会の帰り道、先輩とキスをした。何故それに至ったのか覚えていない。
何か口論になって、最後に感極まってキスした記憶だけがはっきりとしている。どちらかというと、私から迫った気がしないでもない。

これはまずい。やってしまった。まるで思い出せない。
洗面台の鏡に映るぼさぼさの髪を前に、私は葛藤していた。この状況、どうしたらいいんだろう。すごく学校に行き辛い。どんな顔して先輩に逢えばいいのか。二十歳も超えて、なんて流されやすく不甲斐ないんだろうと自戒する。はぁ。
まずもってお酒はだめだ。もう絶対飲むもんか!ワンルームの小さな部屋に散乱した服と下着を見渡して、私は固く誓った。

「はい、おまちどうさん。」
大将がキンキンに冷えたビールを運んできた。お通しだよ、と一緒に小鉢も置いていく。切り干し大根と人参の煮物。これ好き。
いや、そんなこと言っている場合ではない。気が付けば、大学近くの商店街の中に立ち並ぶ、一軒の小さな赤提灯にいた。そして目の前には先輩。しかも今日はふたりきりだ。いただきますと爽やかに大将へ挨拶を返している。

「いやあ君も連日好きだねえ。まあ、可愛い後輩の頼みなら仕方ない。」

乾杯、と言って旨そうにジョッキを傾ける。

「違いますよ!先輩が無理やり誘ったんじゃないですか!」

その日、ゼミに向かう足は重かったが、学生にとって単位は命(プライド)よりも重い。
私は時間ギリギリを狙って研究室へ飛び込んだが、そこには先輩ひとり。ホワイトボードには“フィールドワーク(自習)よろしく” と丁寧な字で書かれていた。教授だ。
そんな馬鹿なと呆れていると、「よう」いつも通りの先輩がにっこりと声を掛ける。待ってたよ。ほらほら、フィールドワークに出よう。

「昨日、一次会の締めで教授が言ってたじゃんか。」ああ見えてあの人お酒弱いからね、と付け添える。
「えええ、そんなこと———」

私はそのあたりから早々に記憶が怪しいのか。二日酔いを想定して自習を宣言する教授もどうかと思ったが、全く以て他人のこと言えない。ちくしょう、唐揚げがおいしい。先輩が遠慮なく絞り散らかしたレモンがよく染みてる。
・・・そうじゃなくて、昨日の話。なんとか昨日の話を、それとなく聞きたい。

「君、本当に美味しそうに食べるねえ。」

頬杖を付きながら、にこにこと微笑む先輩。それこそ何事もなかったように。

「フィールドワークどうするんですか。まあもう飲んじゃいましたけど。」
「まぁまぁ、だから大将の話を聞きに来たんじゃないか。」

すみませーん、と先輩はビールのおかわりをお願いする。奥から大将がひょこひょこと歩いてきて、あいよ、と空になったジョッキを片付けていった。
老齢の大将の右足は、少し外側に曲がっている。先般伺った話では、かつて鉱山に勤めていた時に起きた事故の影響だという。
生物学科の私たちは、人体の老化と予防に係るゼミに所属していた。当初は試験管を使って謎の細胞を培養するものだと思っていたが、蓋を開けてみれば町内のお年寄りたちから話を聞くとか、そんなわりと地味な活動も多い。嫌いじゃないけど。

肝心の先輩はというと、一杯目のビールと二杯目のビールの違い、という非常に哲学的なテーマで大将と熱く語り合っている。

「もう、先輩。来週はレポート提出なんですよ。」
「え、もう卒論まで概ね終わってるよ。卒業まで単位も安心。」
「そんなあ。」

先輩は掴み所なく飄々としているわりに、なんとも手際がいい。私のレポート未だ白紙なんですが。卒業まで私は何度徹夜するのだろう。卒業、卒業か。

「先輩って、卒業したらどうするんですか?」
「さーどうするか。宇宙へ冒険にでも出るかなあ。」

聞けなかった———。
いつものように、私をからかって遊ぶ先輩を前にすると、楽しくて。うまく昨日の話を切り出すタイミングを見失ってしまった。いいだけ飲んで店を出る。いつも通りだけど、楽しい。

帰り道一緒だから、と先輩は私を家まで送ってくれる。でも、私は知っていた。先輩の家は町の反対側だ。先輩は優しい。
ふとそんなことを思うと、言葉に詰まってしまった。ちきちきと先輩の押す自転車だけが静かな住宅街に響いている。

———あれ?これって今夜、あるのか?

まずい。まず部屋がきたない。少なくとも嗜好性が強い薄めの本だけは隠したい。
あと、くたびれた下着が干しっぱなしだ。せめていちばんいいやつに差し替えたい。
いや、そうじゃなくて。操を捧げるにしても、やはり段取りは整えておきたい。
昨日、なんで私とキスしてくれたのか。これだけは聞いておかねば!私は腹を括った。

「先輩は!」
「ん?」

「・・・夢とかあるんですか。」

聞けない———!
私めちゃくちゃ意識してる。恥ずかしくて先輩の顔が見れない。これものすごく適当な冗談で返されるやつだ。

———あれ?これ、前にも聞いたような。

先輩は少し間を置いて答えた。

「宇宙飛行士だよ。」

あ。

「低重力下での人工筋肉の開発に貢献したい。この技術が確立すれば、たくさんのお年寄り、病気や怪我で困っている人を救える。」

ああ。

「それで、海外に行くって。暫く帰ってこれないって。」

私が絞り出すように声を上げると、思い出しちゃったか、とちょっとだけ困ったような笑みを浮かべて先輩は続けた。

「教授からの推薦が通って、今朝、先方から正式にオファーを貰ったんだ。まずは先方の研究所に勤めることになると思う。」

気が付けば、私は昨日と同じ言葉を吐き出していた。

「嫌です!先輩と離れるなんて、嫌です!」

そして昨日と同じように、ぼろぼろと溢れ出る涙を堪えきれない。

「寂しい思いをさせて、ごめんね。」

先輩はゆっくりと私へ手を伸ばした。私は知っている。その温かい手は、私の髪を優しく撫でてくれるのだ。
でも、今日の私は違う。

私はその手を取り、しっかりと握り締めた。

「私ついて行きますから!どこまでも一緒にいたいんです!」

私はあっけにとられている先輩の胸に飛び込んだ。そこはとても暖かくて、柔らかい。
先輩は包み込むようにして、少し強く抱きしめてくれた。胸の高鳴りが止まらない。
頭ひとつ高い先輩の顔を見上げると、照れくさそうに答えた。

「でも、いいの?私、女だよ?」
「広大な宇宙に飛びだそうって人が、小さいことを気にしちゃだめです。」

先輩は柔らかく微笑んだ。近づく彼女の吐息が私の頬を撫でる。

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