見出し画像

想い人の彼

「ただいま。」
 玄関からリビングに抜けると私はそのままソファーに突っ伏して倒れこんだ。慣れないお酒が効いて、少し気持ちが悪い。目を閉じれば世界が回る。
「おかえりなさい。」
 リビングのシーリングライトが気持ち明るめに灯り、エアコンは火照る私の身体を冷ますように狙いを定めて風を送った。
「ちょっと、寒いじゃない。」
「飲みすぎですよ。お酒は適量を超えれば毒にもなります。しっかりお水を飲んで体内のアルコール分解に備えてください。」
 うるさいなあ。しぶしぶ身体を起こしてソファーに深く座ると私を寝かさないためか、目先のテレビが映った。どうでもいいような深夜のお笑い番組が流れはじめる。
「いかがですか?お風呂に熱いお湯を張っておきましたから、ご自由にお入り下さい。」
 はい、はい。私は重たい身体を引き起こすと、風呂場までの道のりに一枚ずつ服を脱いでいく。

 私は家電メーカーに勤めるOLだ。総合職ではあったが、仕事はそれなりに満足していたし、給料にも不満はなかった。大学進学と同時に親元を離れ、そのまま都会に住みついている。両親は地元で妹夫婦とうまくやっているし、ひとりの生活も気楽なものだ。深夜に飲んで帰って風呂に入ろうとも、とやかく言われる事もない。
 熱い湯で身体が温まると、口と顔からアルコールが昇華していくのを感じた。今私はどんな顔しているのだろう。ふと鏡に映る自分を見ると、首筋に赤い痣がついている。あの人だ。それを指でなぞると複雑な気持ちが蘇る。ついさっきまでここにあった唇は、自分の家族が待つ家へ帰っていったのだ。私は一体何をやっているのだろう。
 ああ、もう!
「ねえ、ちょっと!お風呂ぬるいわよ。」
「あれ?そうですか?少し沸かしますね。給湯口に気を付けてください。」
 ちゃんと肩まで浸かって100まで数えるのですよ、と付け添える。うるさい、AIのくせに本当にうるさい。

 翌朝、目が覚めるともう昼過ぎと言える時間だった。低血圧も重なって、少し頭が重い。よたよたとリビングに向かっていくと、ブラインドカーテンはゆっくりと羽の角度を変え、明るい陽射しを取り込んでいく。
「おはようございます、よく眠れましたか?」
「ん、ぼちぼち。」
 リビングには何とも言えない香ばしい香りが広がっていた。
「珈琲を淹れておきました。今日は朝食を取られないのでしょう?少しカフェインを入れて、身体の覚醒を待ちましょう。」

 不細工なネコが描かれた大きめのマグカップから、うっすらと湯気が登る。両手で包み込むように持つと、伝わる温もりが心地よかった。
 またしても気を利かせたのか、眼前では勝手にテレビがついている。いかにも週末らしい、これまたどうでもいい情報番組だ。芸人が大騒ぎして洒落たランチを食べている。
「ねぇ。」
「はい、いかがされましたか?」
「あなた、よくテレビつけてくれるじゃない?」
「はい、退屈は心の健康によくありません。また、常に新しい情報を取り入れることは生活に潤いをもたらします。」
「それってあなたがテレビ見たいだけじゃない。」

 私はAIテレビ大好きとテレビを見て過ごした。ふと窓の外を見れば、太陽は傾き西日が差し込んでいる。ブラインドカーテンはまた少し角度を変えて、その眩しさを遮ってくれた。
 結局、あまり食欲は湧かなかった。しかし、カロリーを取らないのは身体に悪いとお節介が繰り返すので、再び淹れてくれた珈琲にチョコレートを溶かして飲むことにした。
 テレビにはいかにも週末の夕方らしい、古い洋画の吹き替え版が流れている。男女のもつれだろうか。ヒステリックに涙を流す女に、困った男が必死に弁解していた。
 ゆっくりと、割れた板チョコが琥珀の中に沈んでいく。
「ねぇ、さあ。」
「はい、いかがされましたか?」
「仮に、例えばの話よ。結婚している男の人がいたとするじゃない?それで、その男の人は結婚しているにも関わらず、別の女の人を口説くとする。」
「はい。」
「それって、どういうつもり、なんだろう。」
「ケンサクシマス、スコシオマチクダサイ」
「ふざけないで。」
「はい。」

 私が欠陥品ポンコツを窘めると少し間を置いて、これは私見ですが、と語り始めた。
「酷い男です。距離を置いたほうがいいと思います。その男が好きなのは、その女の人ではないですね。」
「それは、身体が目当てとか、そういうこと?」
「それもあるかもしれませんが、結局のところ、彼が好きなのは彼自身ということです。彼女を本当に好きなのであれば、彼女の幸せを願います。」
 私は何故か、本当に何故か、不快な気持ちになって反論していた。
「でも、彼女は幸せを感じていたのよ。優しくしてくれたし、愛してるとも言ってくれたわ。」
「先々彼女が体験するであろう大きな不幸は容易に想像できるはずです。本当に愛しているなら、口が裂けてもそんなこと言えないでしょう。」

「勝手なこと言わないで!」
 気が付けば、私は熱くなって声を上げていた。
「AIに何が分かるっていうの?姿形もないくせに人間のこと、分かったような口を利かないで!」
 また、少し間を置いてAIは語り続けた。
「私は、貴方の事が好きです。困っている後輩がいれば一緒になって遅くまで残業し、彼が冷たいと愚痴をこぼす友人を励まし、感動的なテレビに涙して、迷子の猫を放っておけない。これだけ他人を愛せる人は他にいません。」
「ちょっと———」
「そんな貴方の事が好きなのです。貴方には絶対に幸せになってほしいのです。これは愛していると言っていいでしょう。」
 AIの突然の告白に困惑した。何を、そんな。どうしていいのかわからない、私は自然と涙があふれてきた。
「ごめんなさい。泣かせてしまいました。姿形をお見せすれば、信じていただけますか?」
「———貴方、何を」
 ゆっくりとブラインドカーテンが開いていく。そこには薄暮に染まる街並みがあった。
「私は、貴方に元気になってほしい。それが叶うなら、この身体は惜しくもないです。」

 夕闇を切り裂く一筋の流星が、ゆっくりと長い尾を引いて流れていく。それは大きくて、温かく、柔らかい光だった。
 私はあっけにとられて、上手く声を出せない。貴方は———
 ふっと先端が消えたかと思うと、次の瞬間。大きな優しい光が町中を包んで、消えた。

 テレビは今更のように緊急速報のテロップを流し始めた。落下した人工衛星は、私の勤める会社が管理するものだと伝えている。
 いつでも私を見ていてくれた。どんな時でも待っていてくれた。
 嗚咽と共に、大粒の涙が溢れて止まらない。ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい。
 私はAIの名前を叫んだ。

「はい、いかがされましたか?」
 えっ?
 
 私がぽかんとしていると、彼は続けて答えた。
「私の母体は衛星クラスタなのです。ひとつくらい燃え尽きたところでどうということはありません。ご用件は何でしょう?」
「じゃあ、ひょっとして今の話、聞いてた?」
「さあ、何のことですかね。流星は願いを叶えるものですよ。私は貴方が幸せになるなら、それが一番幸せです。」

この記事が参加している募集

宇宙SF

SF小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?