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二重スリットの彼女

その日、彼女がふたり来た。

「ごめんねー、待った?」「服選んでたら遅くなっちゃった」

小走りに駆け寄ってくる彼女”たち”の声。差し当たって今来たところだよと返す。
僕の脳がどうかしたのかと思った。何度か瞬きしてみるが、どうやらそうではないらしい。

駅前で立ち話もなんなので、予定通り近くの洒落た喫茶店にしけこんだ。ここはキャラメルマキアートで有名なお店だ。それをふたつ、僕はモカマタリを注文する。
ボックス席の眼前には並んで座る彼女たち。寸分違わず同じ顔。服こそ違うが、その声も、その仕草も、まるで双子の域を超えている。文字通り、冗談にしては出来すぎだ。

当初こそ驚きはしたものの、話をしてみればやっぱり僕の好きな彼女、がふたりいるだけであって。僕は自分が落ち着いたのを見計らい、事の顛末を問う。

「大学のゼミで、実験に巻き込まれちゃってね」「さすがにちょっとびっくりした」

なんでも二重スリット実験?というものに巻き込まれたらしい。国文学科の僕には何のことやらさっぱりだ。細胞みたいに分裂したの?と聞けば、違う。同一の個体が二重に存在しているだけ、とのこと。そういうものだろうか。
双子のように見えても、その意識はひとつ。それなりに脳は疲れるけど、慣れたらそれぞれ独立して動かせるようになったそうだ。どういう原理だと思ったが、量子のもつれ?なるものが作用してどうのこうの。どうやらそういうものらしい。

やっぱり食べてみたいと所望したザッハトルテとモンブランが、それぞれの口の中へ消えていく。甘いものが好きな彼女は、いつも美味しそうに食べる。
もともとあっけらかんとした性格の彼女を好きになったのだけど、こうもさくっと受け入れられるものだろうか。
実験に巻き込まれたのなら仕方ない。そう言って即日もう一枚学生証を作ってくれたという大学も大学で、大概だと思う。

店を出ると冬の太陽は雲に隠れていて、少し肌寒い。それでもこの時期のやつは一着しかないからと、彼女たちは交代で譲り合いコートを羽織っている。それも可哀そうなので、午後はコート選びに付き合うことになった。
ショッピングモールを巡る僕らは、左右でそれぞれ腕を組む。なんだか連行されている気分は否めない。

ある日、ふたりは僕の住まうワンルームの掃除に来てくれた。
ひとりは風呂。ひとりは洗濯。じつにてきぱきと動く。あまり家事が得意ではない僕にとって、とてもありがたいことだ。彼女は優しい。
そんな彼女たちの姿に、なんだか妙な違和感を覚える。それは、あまりに自然で、最初は何の疑問も持たなかった。でも、これは———

「ちょっとこっち手伝える?」「あ、これ干したらすぐ行くよ」「はいはい」

意識は共有しているはずなのに、それぞれが個体として会話している。これって、脳内会議ってやつなのか。本人たちに聞いてみても、「ん?」彼女はいたって普通だ。

概ね掃除の目途が見えてくると、僕は差し入れとして、ふたつの味のアイスクリームを出してみる。いつもの彼女なら迷わずチョコミントを選ぶはずだ。以前、芳香剤の香りと言ったらすごく怒られたからよく憶えている。
でも、そこにはちょっと嬉しそうに、お互い譲り合う光景があった。「そっちが食べなよ」「えぇ、いいよお」どっちが食べても記憶はひとつのはずなのに。不思議でならない。

そしてまたある日、彼女はひとりでデートに来た。
もうひとりは?と聞けば、自宅でレポートの締め切りと戦っているそうだ。どちらがデートに行くかで揉めたらしい。じゃんけんだと勝負がつかないと、最終的に賽子を振ったそうだ。

僕らはプラネタリウムを観覧した後、彼女が雑誌で見つけていた運河沿いのダイニングでディナーを楽しんだ。
いい時間になり店を後にする。駅まで繋がる運河沿いの回廊は、月に照らされていい雰囲気だ。僕は繋いだ手を辿って、その横顔を覗くと———

彼女はくしゃくしゃになって泣いていた。僕はすごく慌てて声を掛ける。もうなんて声を掛けたか憶えていない。でも、彼女はぎゅっと僕の手を握って、こう繰り返すのだ。

「ごめんね。貴方が悪いわけではないの。ほんとにごめん。私が悪いの。ごめん」

ぽつぽつと、少しずつ語る彼女の言葉を紡げば、デートを楽しんでいる自分。それをもうひとりの自分が嫉妬するらしい。
少し落ち着いた彼女を家の前まで送っていくと、家の中から彼女が出てきて僕の胸に飛び込んだ。胸の中でべえべえ泣く彼女と、その隣でうんうんよかったねともらい泣きする彼女。
今思えばそれが、僕が最初に感じた不安だった。

———これ、人格が分かれはじめてないか?

翌日、大学の図書館で彼女たちと席を並べながら、やはり昨夜のことを考えていた。
まだ筆記具が二人前揃ってないとかで、彼女たちは僕を挟んでペンやノートをやりとりする。これは帰りしなにでも買って差し入れておきたい。
学内で待ち合わせるなり、昨夜のことを彼女に聞いた。彼女はけろっとした様子で「もう大丈夫よ、要は慣れの問題」とはにかむ。むしろ晒した泣き顔のほうを恥ずかしがっていたくらいだ。
物理学科に籍を置く彼女は、とても聡明で頭の回転も早い。慣れてしまえばそんなものだろうか。左右から聞こえるステレオの鼻歌を耳にすると、少しだけ安心できる。

それからというもの、彼女は自分の置かれた環境をすっかり楽しんでいた。
ひとつの意識でふたつの身体を、実にうまいこと使い分ける。教授の手伝いでキャンパスを走り回る彼女を目視して帰宅した僕は、合鍵で開けた僕の部屋で夕飯の支度をする彼女に迎えられるのだ。
年末年始に至っては、自身の実家に帰省しながら、僕の実家についてくるという偉業を成し遂げた。なんと器用なことだろう。

しかし、僕の不安は少しずつ大きくなっている。
彼女たちが別々に過ごす時間が長くなるほど、彼女たちはそれぞれの個性を獲得し始めていた。本質的には楽天的で朗らかな彼女なのだ。でも、着る服の好みや化粧の趣味、僕に甘える仕草やデートで望む雰囲気は、少しずつその差異を広げていく。
それはそれで、これはこれで、いずれも彼女も可愛い。でも、これがこの先どういう影響を及ぼすのか、皆目見当がつかなかった。
僕は彼女が大好きだ。将来のことを真剣に考えれば、やはり、ひとりの身体に戻ってもらったほうがいいのでは———

別に今のままでも、とあっけらかんと答える彼女。しかし、あまりにも真剣に悩む僕を見かねて、件の実験を指揮したという教授の元を訪れることになった。
いかにもという風体をした白髪の老翁は、僕の憂慮を真正面から受け止めてくれる。

「もう一度、あの時と同じ実験を繰り返せば元に戻るかもしれない。もちろん何が起きるかわからないリスクはある。それを理解するなら、そこのボタンを押すといい」

僕は押し黙った。もし彼女の身に何かあったら。それを想うと喉の奥から言葉が出ない。悔しくて不甲斐ない、自分の無力さを呪った。
その時、柔らかくて温かいものが僕の両腕を包む。彼女たちは自身の腕を絡めると、僕の両頬に優しいキスをした。

「大丈夫。どんな私であっても愛してくれる貴方が好きよ。不安でつぶれそうな貴方を見ていられないの。心配しないで。私に何があったとしても、私は貴方と一緒にいるわ」

そう言って彼女は軽やかに、その装置のボタンを押した。

彼女は四人になった。

★-・-・-

彼女たちとの新しい生活にもだいぶ慣れてきた。
元より手狭だった彼女の賃貸で、四人暮らしはさすがにきびしい。そう言う彼女に誘われて、僕らは五人の同棲生活を送っていた。
彼女たちは元来の人格を核として、ちょっとずつ異なる趣向を持っている。僕にとってそれは全て彼女であり、彼女の全てだ。それらは全部、愛おしい。

彼女たちもまた各々の経験を生かし、学生の身でありながら方々で活躍を始めていた。そんな彼女たちは、これまでの体験を綴った手記を出版する。そのセンセーショナルな内容は世界中で高く評価されベストセラーとなった。
僕は星の夜空を仰ぐ。彼女の成功を受けて、僕はまだまだもっと頑張らなければならない。
そうした固い決意を胸に、今日も僕は彼女の待つ家路を急ぐ。

本のタイトルは『多少雰囲気を変えたところで、まじめで優しい彼のセックスは普通』だ。

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