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句養物語リプライズ『蝶』

俺は、自由気ままに生きてきた。それは孤独を愛する故であると思うが、同時に器用な男でもあると思う。この世がどんなに生き辛くても、工夫次第で上手く乗り切っていくスキルがあると自負している。

元々は、自分の内に秘めた才能に任せて生きるタイプだったのだが、世間というものは、常に飽きっぽいものである。一世を風靡したトレンドですら、瞬く間に廃れていくのが世の常というものだ。

『Swallowtail Butterfly』という音楽ユニットを立ち上げ、アルバムまで発売したのが、遠い過去のようだ。一人で作詞作曲、編曲もこなし、歌は得意中の得意だから、もちろん自分で歌った。タイアップまでついて、このままアーティストとして一生食っていける、俺はそう確信していたのだ。

しかし、世間はそう甘くはない。俺はいわゆる一発屋と揶揄され、セルフタイトルのアルバム一枚をリリースしたのち、表舞台から姿を消す事になる。棚の片隅に立て掛けたCDジャケットには、モチーフである揚羽蝶があしらわれている。長らく手付かずの状態だからか、淋しそうに影を落としている。当時はプライドが傷ついたものだが、好きな事をして飯を食えていたわけだし、今となっては諦めも付きやすい。音楽がダメでも、生きていく手段など他にいくらでもあるのだ。何しろ、俺は器用な男なのだから。


アーティストとしての鳴りを潜めた後の俺は、転売業を生業としている。あまり知られていないが、転売に必要なスキルの一つは、『言葉』なのだ。作曲だけでなく作詞もこなしていた事が功を奏して、俺は相手の心へ届く『言葉選び』を自然にできるようになっていた。

商品の魅力を言葉に乗せ、万人向けに放射するのではなく、本当に欲しい人だけに絞って発信する。真にその物を欲している人は、その物に相応しい言葉も欲している。言い換えると、その物を極度に欲している状態とは、自分自身の承認欲求をそこへ投影している状態と言える。その物を認めてくれる言葉を投げかけてもらえる事で、間接的に自己承認欲求が満たされていくのだ。この理論に基づき、俺は相手を絞りこんでは、ダイレクトメールを駆使して、相手の欲しがっている言葉を次々と送り込んでいく。

商品ごとのアピールポイントは教えられないが、基本の定型文としては、例えばこんな感じだろうか。

「この商品に、あなたと同じような魅力を感じている人はたくさんいるんですよ。私もその一人なんです。だからこそ、この価値を真に理解してくれる人にお譲りしたいのです。」

こうして相手の心情に寄り添いつつも価格を吊り上げていき、売値が仕入れ値を上回り、利益が確保できると判断した段階で、売買成立とするわけだ。相手が真に欲する言葉を介して購入に至る場合、支払った金額の大小を問わず、その満足度は常に高いものとなる。売買というのは、両者の間の熱量が釣り合った時にこそ、その価格が真に適正であると感じられるからだ。

音楽から離れて作曲をしなくなったから、必然的に作詞もしなくなっていたが、俺の内側から飛び出そうとする『言葉』は、常に生き場所を探している。俺はその言葉の生かし方を、音楽に乗せて不特定多数の人を幸せにする事から、転売を通じて特定の人を幸せにする方へとシフトしたというわけだ。

例えば人は、鏡の前に立っただけでは、自分自身を知る事ができない。鏡に映るのは外見のみであり、内面を詳らかにする事は不可能だからだ。自分の心の芯の部分を知りたければ、『鏡のような他人』にそれを映し出せば良い。

歌や転売も同じこと。俺は『言葉』を介して、誰かにとっての『鏡のような他人』になる事に、生き甲斐を感じている。職が変わるという事は、手段が変わるという事であって、目的まで変わってしまうわけではない。即ち、俺が今やっていることは、俺が今やりたいことなのだ。


俺はこうして、金をたんまり稼ぐことができた。その金額が、アルバムの印税を超えるのに、さほど時間はかからなかった。それだけ金があれば、衣食住に困ることはない。贅沢をしようと思えばできたが、俺はこの転売業そのものが、面白くて仕方がなかったから、自分自身の為に何か大きな買い物をしたいという気にもならなかった。家に引きこもり、誰にも邪魔されずに、転売業を全うする日々が続いた。

俺はその生活に何の不満もなかった。強いて言うなら、炊事洗濯掃除などの家事全般が、少し面倒くさいくらいだ。しかし、そんな小さなストレスでさえ、後々解決してしまう事になるのだった。


ある日の夜、俺は食料調達だけ済ませて家に帰るところだったのだが、いつもは通り過ぎるだけの公園で、ふと立ち止まった。敷地内から女のすすり泣くような声がしたのだ。パッと見た感じでは誰もいないように感じたが、よくよく目を凝らして見ると、そいつは池のそばのベンチに倒れ込んでいるらしかった。最初は酒に酔っただけの女だと思ったのだが、近づいて見てみると、酒が飲めるかどうかすら怪しい、若い女だ。しかも、顔や腕にアザのようなものがあり、表情は絶望を通り越して死の淵にいるかのように見えた。

俺はできる限り優しく、女に話しかけたが、なかなか応えてはくれなかった。俺も老け込む歳ではないのだが、どう見ても一回りは離れていただろうから、警戒されても仕方が無いだろう。

放置して帰るのも気が引けたので、しばらくそばにいてやることにした。外傷などの状況から察するに、日常的な虐待の被害にあっていて、死物狂いで逃げてきたのではないか、そんな憶測が俺の脳裏を過ぎった。たぶん、それが当たっていたからこそ、女はほとんど口を開かなかったのだ。人間不信になって当然の、酷い仕打ちをされてきたに違いない。俺はそう確信した。

急いで帰る理由もないから、しばらく様子を見ていたが、憔悴しきっているのか、女は眠りこんでしまった。俺は乗りかかった船だとばかりに、隣のベンチで勝手に一夜を明かした。この女には、家から逃げ出したくなるほどの恐ろしい存在があるのだろう。それが肉親なのか、または恋人なのか、俺には知る由もない。そういった存在がいつ追ってくるかも分からないので、俺は護衛のつもりでそこにいたのだが、夜が明けても何も起こる気配はなかった。

そこで俺はコンビニへ行き、パンと温かい飲み物を買ってきた。季節は春になったばかりで、夜はまだまだ冷え込んでいたからだ。

帰ってくると、女は目覚めていたが、呆然とただ座り込んでいた。そこで俺は、そばに屈んで目線の高さを整えると、もう一度話しかけた。

「嬢ちゃん、これ食いなよ。」

女は少し驚いた表情を見せたが、警戒しながらもパンに手を伸ばした。もぐもぐと食べ始めた女に、俺はボソボソと喋り始めた。

「何があったか、言わなくてもいい。だが、もし帰るとこがないってなら、ウチに来てもいい。赤の他人を信用できないのも分かるが、このままここにいると、その内警察の厄介になるだろう。そうなると元の人生に逆戻りだ。虫籠みたいな人生に、戻りたくはないだろう。因みに、俺は一人で気楽に生きてるだけの人間だ。ついて来るなら、必要以上には干渉しないと約束しよう。来ないなら来ないで、自由にしろ。とにかく俺はそろそろ帰る。ついて来るかどうかは、自分で決めるんだな。」

女はビックリした様子で聞いていたが、立ち上がった俺の後を、パンをかじりながら、ひょこひょことついてきたのだった。

こうして、俺とこいつとの、奇妙な同棲生活が始まった。始めはどうせすぐにいなくなるだろうと踏んでいたのだが、そうはならなかった。帰る場所がないという俺の予想は、恐らく当たっていたのだろう。俺は食事はもちろん、金を渡して衣類や身の回りのものも、必要なだけ買いに行かせた。金には余裕があったから、一人養うくらいはなんて事はなかったのだ。

最初は、俺のもてなしに甘えるだけのやつかもしれないと思ったが、決してそういうわけでもなかった。こいつは本当に必要な分しか買ってこなかった。そればかりか、炊事洗濯掃除を進んでやるようになり、俺の小さなストレスは瞬く間に解消された。

しかし、必要最低限だったのは、支出だけではなくて、俺とのコミュニケーションについても同じだった。受け答えこそするものの、会話がそれ以上膨らまないタイプの人間なのだ。そして、最も大きな問題は、何度訊いても、名前を名乗らないという事だ。これが意味するところを、俺は正確に理解できていたと思う。

恐らく、近しい存在からの虐待を日常的に受け続けたことで、相手を憎むより先に、自分自身を責めてしまったのだろう。自分で自分を責め過ぎてしまい、極度に追い詰められた事で、客観的な思考が欠如してしまった。自分が辛いのは全部自分のせいだと結論づけ、自分という存在、概念、そして名前そのものを忌み嫌うようになった。だからそれを口に出す事は、凄惨な過去を引きずり出してしまう事に繋がるのだ。自分自身の事を、その名前すら、愛してやれないなんて…。こいつの境遇を、俺は憐れんだ。だが、だからと言って、何かしてやれそうもなかった。俺はこいつにとって、以前より少しだけマシな日常を、手の届く所まで持って来てやったに過ぎない。いつかこいつが、自分の意志でここを出ていく時がくれば、それこそが新しい日常となり、門出となるのだろう。

こいつは、俺と同じく、所謂引きこもりの状態だった。転売業の説明はしていたから、部屋にある様々なものに少しは興味は示していたが、すぐに飽きてしまったようだった。

数々の魅力的な品物に紛れて、淋しそうに影を落としていた例のCDに至っては、「ダサい」と一蹴されてしまう始末だ。

もっと自由に街へ繰り出すなり、遊びに行けばいいと思うのだが、過去の恐怖心からだろうか、最低限の買い物を除いて、家にいる事が多かった。スマホも持たせていたから、退屈は凌げていただろうが、なんとも張り合いのない人生だ。動画でも見ているのか、イヤホンをつけてゴロゴロしながら、液晶とにらめっこをする日々が続いていた。お互いに必要以上の干渉をしなかったから、同棲こそしていたものの、俺は引き続き自由気ままに生きていられたし、こいつにとってもそれは、丁度良い距離感だった事だろう。

そんな生活が一年ほど続いたある日、俺の元に封筒が届いた。それは、転売した商品に対するお礼の手紙だった。その相手は、長年に渡りそれが欲しかったのだが、なかなか見つける事ができず、やっとの事で俺から買い取って手元に来た事に、万感の思いを抱いたらしい。長々と書かれたお礼の手紙には、チケットが2枚、同封されていた。それは、新しくできた大型の遊園地の入場券だった。詳しくは知らないが、かなり規模の大きな施設で、特に観覧車が有名らしい。話題性も高く、お礼としてチケットが贈られる事も多いそうだ。

言うまでもなく、俺にとってそれは魅力の欠片もないわけだが、こいつにとっては違う。親はこいつを遊園地へ連れて行ったりはしていないだろうから、行けばきっと良い思い出になるだろう。打診してみたところ、本人も快諾してくれた。本音を言えば面倒だったが、こいつは見ている限り、友人や知人もいないように思われたので、俺は保護観察者として同行する事にした。


大きな施設とは聞いていたが、着いてみると想像より遥かに広かった。なんというか、個性的な所もあって、目印にモアイ像の置物があったり、遊園地なのに何故か一番行列ができているのは、花屋だった。なぜこんなとこに花屋があるのかは謎だが、カップルたちが犇めいていて面倒だったから、それ以上は調べなかった。

もちろん俺は遊園地なんて柄でもないから、こいつが一人で楽しんでくれればそれで良かったのだが、そう上手くは行かなかった。結果的に俺はあらゆるアトラクションに付き合わされる事になり、夕方になる頃には疲労困憊になっていた。

色々巡ってきたが、あとは、この施設の一番人気であり目印でもある、一際大きな観覧車を残すのみになっていた。これが終われば、やっと家路につける。そんな下心と共に、俺はこいつと観覧車へ乗り込んだのだった。そして、俺とこいつは向き合うようにして腰掛けた。ほとんどのゴンドラにはカップルが乗っていただろう。だからなのか、このゴンドラにだけは、遠慮なく夕陽が差し込んできていた。


観覧車というのは密室だ。元々あまり喋らない者同士が悠長に乗るものではない。仕方が無いので、俺は場を繋ぐ為にある提案をした。

「この遊園地は、どういうわけか花が有名らしい。せっかくだから、買っていこうか。」

すると、こいつは突拍子もないことを言い始めたではないか。

「花は要らない。その代わり、歌を歌って欲しい。」

俺はびっくりしたものの、内心では「容易いことだ」と思っていた。俺が歌を生業としていた過去を、こいつは知らないのだ。しっとりと歌い上げて、逆に驚かせてやろうか…そんな事が頭を過ぎった。

「お易い御用です、お嬢様。どんな歌をご所望でしょうか?」

少しふざけて、執事のように訊ねると、こいつは真顔でこう切り返してきた。

「じゃあ、誕生日のやつで。」

それを聞いた瞬間、俺はハッとした。もしかして、こいつは誕生日すらまともに祝ってもらえた事がないのか?さすがの俺も一瞬動揺したが、だったら尚更、元アーティストである俺が、渾身の歌で祝福してやるしかないだろう。俺は気を取り直して、冗談を続けた。

「今日が誕生日とは、存じ上げす失礼しました。お歌のプレゼントをご所望という事ですね。かしこまりました。ケーキもローソクもご用意がないのですが、それでも宜しいでしょうか?」

茶化したような俺の質問に対して、こいつの返答は実にシンプルで、奥が深いものだった。


「吹いて消えるような灯なら要らない。」


それは、何気ない一言のように思えたが、確かに「詩」としての力を帯びていた。その言葉にある質量は、こいつが抱えてきたものの重さに比例していただろう。この一言を発するための並々ならぬ「覚悟」のようなものを俺は感じ取って、また少しだけ動揺してしまった。だが、何も慌てる事はない。俺は心を込めて、誕生日の歌を歌い上げれば良いのだから。俺の歌声なら、こいつを凄惨な過去から引き離し、新しい日常へと連れ出してやることができるだろう。

俺はそんな事を考えながらも、平静を装って歌う動作に入る。

「それでは僭越ながら、失礼して歌わせて頂きます…。」

俺は精一杯のユーモアを込めて、オーケストラの指揮者の仕草を真似て両手を動かし、歌い出しのリズムを取ると、最初の一息を大きく吸い込んだ。

しかし余裕をかましていられたのも、ここまでだった。俺はここから、予期せぬ事態に見舞われる事になる。その誤算は、大きく分けて3つの事柄に及ぶ。

1つ目に、これは複数の人が歌える合唱型の歌である。ゴンドラという密室で歌う訳なので、当然こいつも歌を歌う事になるのだ。二人同時に歌うということは、ワンマンで歌い上げるやり方ではマズイ。ある程度、相手に寄り添う歌い方が求められるのだ。あくまでも、今日が誕生日であるこいつの歌声が主役なのであって、俺の歌声はそれを立てる脇役に徹しなければならない。

2つ目の誤算は、俺とこいつが同時に第一声を発した瞬間に判明した。



「♪Happy birthday to you...」


(こいつ、なんて声してやがる…!)

他人の声で背筋が震えたのは、これが初めてだった。こいつの歌声は、実にか細いものだったが、その芯には確かな力が漲っていたのだ。その振動は瞬く間に俺の心へ届き、身体の端々までを駆け巡った。また、俺はこいつの歌声を立てようと、少し低めの歌い出しにしたのだが、こいつはそれをほんのコンマ0.1秒で察知し、二つの歌声が混じり合うように、最適な音階で歌い始めたではないか。これは、素人の芸当ではない。手練れの技でないのなら、天性の才能と言わざるを得ない。その結果、こいつは自分が前に出過ぎる事もなく、かと言って下がり過ぎるわけでもないという、絶妙なポジショニングを保ったままで歌っているのだ。

こいつは歌手になれる…今すぐにでも。そんな事を考えていたら、すぐに2小節目がやってきてしまった。


「♪Happy birthday to you...」


これはもはや、一流アーティストとハモっているような感覚に近い。それだけ、こいつの歌声は実に美しかった。つまりこいつは、自己主張をしながらも相手を立てる歌い方を知っていたという事になる。こいつに気分良く歌わせるつもりが、逆に俺の方が気持ちよく歌わされているではないか。これが、2つ目の誤算だ。

そして、3つ目の誤算は、極めて根の深い問題だと言える。

そう、俺は、最も重要な準備を欠いたまま、この歌を歌い始めてしまったのだ。
 


そうだった…俺は…
こいつの名前を知らないじゃないか…。




この歌を歌い上げるにあたり、これは致命的なミスと言わざるを得ない。この問題を解決しない限り、この歌のプレゼントは何の意味も為さない。歌を中断して、名を問い正すという選択肢も脳裏を過ぎったが、一年に渡る同棲生活の中で、こいつが名前を名乗らないのは、揺るぎないポリシーによるものだと俺は確信していたから、即座にその選択肢を引っ込めた。

落ち着け、大丈夫だ、俺にはできる…。 

だが、時間がない。この歌は短い。次の小節に入る前に、現状を正確に把握し、この問題の核の部分を洗い出さないとマズいのだ。

問題を解決する為のプロセスはいつも同じ。最初にやるべきことは、現状分析だ。

俺は脳をフル回転させ、事態の収拾を図っていく。

まず、こいつは自分の意志で、俺にこの歌をリクエストした。こちらから提案したわけではない。だから、恐らくこいつは分かっていたはずだ。俺がこいつの名前を知らないままで、この歌を歌い始めることを。

こいつの目的は、俺に恥をかかせる事ではない。俺がすぐにこの事実に気づき、かつ、短時間の間に正解を導き出し、無事に名前を歌い上げることも含めて、全ては織り込み済みなのだ。しかし、このケースにおける正解とは、本名を言い当てることではない。こいつの本名は、凄惨な過去の苦痛に塗れたものであり、知っていたとしても口に出すのは憚られる状態なのだ。即ち、こいつが望んている名前は、本名ではない。

欲しているのは、新しい名だ。

その新しい名で、初めての誕生日を祝ってもらう事で、こいつは新しい人生の第一歩を踏み出そうとしているに違いない。俺は勝手にそう解釈すると、引き続き脳をグルグルと回転させながら、現状分析を続けた。

これはクイズなんかじゃない。それよりも遥かに難しい問題を孕んでいる。お互いに同時進行で歌っているのだから、俺の選ぶ名は、こいつが選ぶ名と完全に一致させなければならない。お互いがお互いの心を読まなければ、正解は導き出せない。それも、この短い歌を歌い上げる、極めて僅かな間で…だ。

果たしてそんな事が可能なのだろうか?

こいつは、歌い始める前から、その名を決めていた。決めていたからこそ、歌い始められたのだ。片や俺は、うっかり名前の件を失念したままで歌い始めてしまった。この差は大きい。大きいのだが、ここにこそ、ヒントは隠されているのかもしれない。つまり、こいつの答えは、先に出ている。俺はそれを推理すれば良いだけだ。こいつには恐らく、確信があったのだ。俺が必ずその名を選ぶ…という確信が…。即ち、こいつは俺の心理を完全に読んでいる。俺の信条を、こいつは理解しているに違いない。



『言葉』を介して、誰かにとっての『鏡のような他人』になる事。

これこそが、俺の信条だ。
俺の人生は、この信条に沿ってきたのだ。


しかし、こいつに対しては、必要以上の干渉をして来なかったから、その信条を果たせていたわけではない。今思い返せば、それが原因なのだ。この一年の生活が、こいつにとって最善の状態に到達しなかったのは…。

この一年の間、こいつには俺しかいなかった。もっと心を開かせてやろうと努力すべきだったのだろうか?必要以上に干渉しないという約束は、改めるべきものだっただろうか?

俺は、ついさっき、こいつから放たれた言葉を思い返していた。


「吹いて消えるような灯なら要らない。」


俺は心を鷲掴みにされる心地がした。これは即ち『信条』の事であり、それを貫いて生きる事そのものを指している。消えることのない灯を秘めて生きるのが、強い生き方だと、こいつの『言葉』は示しているのだ。

そして俺は、こいつの言った事を、もうひとつ思い返していた。


「歌を歌って欲しい。」


歌が欲しい…ではなくて、歌って欲しい。
こいつは確かにそういった。

こいつが欲していたのは、名詞ではなく、動詞だ。名詞は単独で存在できるが、動詞には『主語』が不可欠だ。

こいつは『俺に』歌って欲しいと言ったのだ。

この言葉に引っ張られるようにして、記憶の片隅の、暗い影の落ちた辺りに転がっていた一言が、心の芯を強く握り締めてきた。




「ダサい。」




俺の生き方は…本当に器用だっただろうか?
本当に、自由気ままに生きていたのか?

信条に沿って生きてきたようで、本当は背いていたのではないか?

思い返したあの一言に、そんな疑問符を突きつけられたような気分がした。あれは、ジャケットのデザインが気に食わないという、表層的な話ではなかったのだ。やりたいことをやって生きているのなら、どうしてあの『蝶』はあんなに淋しそうに見えたのか?

あの蝶を、生かすも殺すも、俺の意志ひとつ。あの部屋にあったのは『自由』なんかじゃない。あれは『束縛』だ。

今、そこに座っている『鏡のような他人』が、俺の心を激しく揺さぶってくる。

こいつは今、誕生日を祝ってもらおうとしてるんじゃない。むしろ、その真逆だ。目の前の相手にとって、鏡のような他人であろうとしている。そうすることで、自分の事を絶望の淵から掬い出した俺に、報いようとしている。

こいつと俺の人生は、全く違うものだったはずだが、本質的には同じだったのかもしれない。『誰かにとっての鏡のような他人』であり続けたいと願う、その一点において。

そうだ…。このゴンドラに向き合って座っているのは、『鏡のような他人』同士なのだ。


だったら…

「歌って欲しい」の真意は、

「歌って“いて”欲しい」じゃないのか?


イヤホンをつけて、日がなゴロゴロしているだけの姿が、まな裏から、目の前のほんの数10センチの所にまで迫って来ていた。


『答え』は、一つしかない。


ゴンドラの中は、夕陽の赤で満ちていた。俺とこいつのビブラートが、その赤を優しく震わせている。

今、こいつは初めて俺を直視している。実に強い眼差しだ。その眼は、既に新しい名を纏っている。俺はもう、それを歌に乗せて読み上げるだけで良いのだ。

永遠のような一瞬が、今、終わろうとしている。喉の奥の方から、突き動かされた『言葉たち』が、堰を切るように溢れ出して来ているのが分かった。



『火の粉めく詩の鱗粉や春夕焼』

(恵勇)




俺達は生まれ変わる

生きたまんまで
生きたまんまでだ

翅を開こうじゃないか
空が待ちくたびれている

虫籠なんか売り払ってさ
翅を開こうじゃないか

俺達は生まれ変わる

生きたまんまで
生きたまんまでだ

今日は記念日なんかじゃない
俺達の新しい誕生日なんだ

おめでとうを言わせて
生まれたての笑顔に

ありがとうを言わせて
これでもかという笑顔に

広げるんだ
翅を





「♪Happy birthday, dear……」





生まれ変わろう
広げるんだ
翅を











「♪あげは…」






『遊園地へ行こう蝶々連れ出して』

(里山子)




「♪Happy birthday to you...」




すぐに沈むはずだった夕陽が、決して吹き消す事のできない灯を、この心に燈した。






“バカヤロウ、
一生我慢してきました
みたいな笑い方、
してんじゃねぇよ…”




確かに、俺はあの時、そう言った。



あれから毎年、
この日が来る度に、
俺はあの話をする。


すると決まって、
同じ返事が返ってくるのだ。





“あなたの方が、よっぽど
そういう顔してたわよ”






『ひとりよりふたりのうたのあたたかし』

(ヒマラヤで平謝り)






句養物語リプライズ「蝶」
【完】


企画・執筆 … 恵勇

俳句提供 … 里山子、ヒマラヤで平謝り
(敬称略)

エンディングテーマ … 『Falling Slowly』
by Glen Hansard & Marketa Irglova


〈リンク集まとめ〉

【句養物語 流れ星篇】


物語本編の起点です。誰かに紹介したくなってしまった人は、このページを教えてあげて下さい…!



【句養物語エクストラ】


本編の読後企画として、ABCのそれぞれの企画へご参加頂けます。応募期限は、作者が飽きるまで!



【句養物語リプライズ】


こちらのページでは、読後企画の参加返礼として、提供された俳句を使ったショートショートを順次公開しております。


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