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一句一遊劇場 饗しの平鰤篇

あの日は、取引先の社長から昼食のお誘いを受け、入った事もない高級な割烹料理店に来ていた。取引先とは言ったが、会社同士の関係ではなくて、ちょっと訳アリというか、会社という傘こそあるものの、個人と個人の契約というか、まあ、あまり人には言わない方が良い類いの関係である。

 俺は馬鹿だから、難しい事はよく分からないのだが、我が家の裏手にあるものが、先方の会社にとって貴重な資源らしく、少量でも信じられない高値で引き取ってくれるのだ。それはこの会社にとって、よほど価値のあるものなのだろう。新商品開発の機密事項に関するので、情報漏洩を恐れてか、あまり詳しくは教えてくれないし、常に俺と社長の間で、少量の受け渡しをするに留めていた。この事は、家族にすら話していない。しかし内緒で大金を得て、一人で使い込もうという魂胆があるわけでもない。

 社長がいつものように、小声で呟く。

 「いやあ、君のおかげで我が社の新商品開発も、すこぶる捗っているんだ。毎度の事だが、くれぐれも内密に頼むよ。こういうことは、どこから漏れるか分からないからね。ご家族にも、もう少し内緒にしてくれたまえ。でも、びっくりするだろうね、お金が貯まって、娘さんの手術費が確保できたなんて知ったら…。」

 

そう。娘は余命一年の身である。世界的に症例の少ない、身体の各機能が段階的に弱っていく難病だ。国内では手が尽くせず、海外の高名な病院に手術の成功例があるものの、渡航費も含めて法外なお金が必要で、妻は絶望しているというわけだ。

 しかし、俺は違う。娘の命を救うのに、金を工面する必要があるのなら、そうするまでだ。たまたま知り合ったこの社長から、話を持ち掛けられた。例のものを譲ってくれさえすれば、大金を援助できる。但し、少量ずつ内密に行う事が条件。俺は即座に快諾し、この取引がスタートしたのだった。取引が規定の量に到達すれば契約は解除となり、晴れて家族にも打ち明けられる。その頃には手術費も満額に達する計算である。

「まあ、今日は日頃の感謝を込めて、ご馳走させてくれたまえ。美味しい鮮魚が入荷しているそうだよ。平鰤というんだ。食べた事ないだろう?」

社長がそういうので、お言葉に甘えてそれを頂く事にした。安い居酒屋とは違い、いかにも高そうな箸が俺の前に置かれた。瑠璃色の装飾がなされた逸品で、食べる前からキラキラとした気持ちの昂りを感じて止まない。

 運ばれてきたそれは、ブリの刺身のように見えたが、よく似た別の高級魚らしい。綺麗な箸のせいもあっただろうが、皿の上に盛られた平鰤の切り身は、圧倒的な存在感を持ってそこに鎮座していた。その身を受け止めるようにして配された「つま」でさえ、銀色に輝いて見えたほどだ。

そこから先は、社長の話など上の空だった。俺はひたすら平鰤と対峙していたのだ。肉厚の切り身がもたらす弾力は、噛む度に俺の頬を緩ませた。脂がたっぷり乗っているのが旬の魚と言うものだが、この平鰤はごく少量の上質な脂をその身に纏っており、その甘さは俺の舌を均しては、すぐに消えていった。このさっぱりとした後味が、次の一口を渇望し、俺を虜にしていったのだった。

 この会食を終えてすぐに、俺が魚屋へ向かったのは言うまでもない。家族に、特に娘には、この味を知って欲しかったからだ。しかし、この平鰤という魚は漁獲量そのものが少ないのか、流通に乏しい。結局その日は見つける事ができず、家路につくこととなった。

 夜になってもこの熱量を抑え切れなかった俺は、取引先の社長に昼食をご馳走になった事、そこで食べた魚がいかに美味しかったのかについて、懇々と妻へ語った。

 翌日以降も諦めがつかず、仕事で別の町へ行く度に、様々なスーパーを探して歩いた。そして、一週間ほどが経過したある日、なんとかして平鰤を手に入れる事ができた。

 

折しもその日は丁度、娘の誕生日だった。

 妻が筍飯を作ると意気込んでいたから、献立的には最高の組み合わせになるだろう。

 

テーブルの上には、妻が趣味でやっている俳句のノートが置いてある。俺が熱く語ったからだろう、平鰤についての句がいくつか書いてあるようだ。

 

『瑠璃色の箸平鰤を迎へ討て』

 

『銀糸めくつまに平鰤鎮座せり』

 

『平鰤の舌を均していく甘さ』

 


今夜はあの美味しさを、家族四人で共有することになる。そして、夏が来るたび、毎年この平鰤に出会えるのだ。来年もまた、ここに記された三句を、喜びを持って見返す事になるだろう。

妻はまだ、例の件について知らない。しかし知っていようといまいと、俺達はこの娘の親だ。それは来年も、再来年も、同じだ。やるべき事が変わるはずもない。

俺達家族にとって最も大事なのは、娘が助かるという「結果」である。その目的の為に必要な手段を取る事こそが、我々が歩むべき「過程」なのだ。

少し離れて書かれた四つ目の句を見て、俺はまだ、妻を安心させてやれていない自分に気づき、腹が立った。だが、今はまだ何もできない。今の俺にできるのは、そんな自分に対して軽く舌打ちをする事くらいだ。


『平鰤やこれが最後の誕生日』



 

 一句一遊劇場 饗しの平鰤篇 【完】

企画、執筆 … 恵勇

画像提供 … うからうから、万里の森
(敬称略)


一句一遊劇場 二十二の夏色篇

https://note.com/starducks/n/n610d31e52761

一句一遊劇場 物語の起点はコチラ↓


 ☆過去作品のご紹介☆

【句養物語 流れ星篇】

没句を編纂した物語の起点


【句養物語リプライズ】

作品の読後企画の返礼ショートショート

※全5話の目次にあたるページ


【巣立鳥】

鳥とか俳句とか出てくる嘘みたいな実話


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