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一句一遊劇場 二十二の夏色篇

まだ幼い頃、絵を描くのが好きだった私に、母は24色入りのクーピーを買ってくれた。3つ上の兄がサッカー好きだった事もあって、サッカーボールの絵ばかりを描いていたそうだ。しかしそのせいで、私のクーピーは白と黒ばかりが減ってしまい、実質22色入りみたいだったと、母はよく笑っていたものである。

当時の事を思い返し、母は趣味の俳句を使って、こんな句を詠んでいる。

『モノクロや二十二色を足して夏』



私の眼に色盲の症状が出てきたのは、恐らく絵を描き始めた頃だったと思う。色彩の感覚が明瞭でなくなり、色の濃淡こそ分かるものの、それまで見えていた鮮やかな世界を、私は捉える事ができなくなってしまった。

例えばトマトは赤い、バナナは黄色いという風に、発症の前の記憶を頼りに絵を描くことはできたが、サッカーボールのあの白黒のコントラストは、色盲の私にとっても分かりやすいものだったのだ。クーピーの白黒ばかりが減っていく本当の理由は、ここにあった。しかし母はそれを正しく理解した上で、いつか必ず治るからと、常に私を勇気づけ、私の絵がモノクロに近い事を悲観的に言う事はなかった。つまり、私が常に前向きでいられたのは、母のおかげなのである。

実際に、色盲について私が悩む事はなかった。見えている色彩が他人より少ないという事を劣等感として受け止めるなら、それは「ハンデ」になるだろう。しかし、人と同じように見えていないというだけで、私はその人たちと同じ世界に立っている。みんなが繋がっているこの世界に、私もまた繋がっている。それを捉えているこの五感が、私だけの五感だと言うだけの話だ。

私が見ることのできる色で、世界を見る。
匂いを嗅ぎ、音を聴き、物に触れる。

そして何より、味覚を楽しむ事ができる。

今夜は家族四人の大好物、筍飯を母が仕込んでいる。そして、父が遠くまで足を運んで仕入れてきた平鰤という魚が、食卓に並ぶ事になっている。

そう、今日は私の誕生日なのだ。

今振り返ると、色盲の件は、私に訪れる試練のようなものの入口に過ぎなかった。というのも、眼以外の各所にも、次々と不調が生じるようになっていくからである。

その後、私は世界的にも症例の少ない難病で、色盲はその予兆だった事が判明した。徐々に身体の各機能が低下していき、最終的には寝たきりになってしまうのだそうだ。そして、私は医者から、余命一年という宣告をされる事となる。

普通ならば絶望の淵に沈み兼ねないところだが、私は母からポジティブシンキングを叩き込まれている。あと一年しかないと悲観するのと、まだ一年もあると楽観するのとでは、気の持ちようがまるで違ってくる。それは私自身の余生への向き合い方であり、私達家族の有り方そのものでもあると思う。

母は難病の事が分かってからというもの、料理にこだわるようになった。我が家は貧乏なはずだが、食費を工面するばかりでなく、料理教室に足繁く通い、その成果を披露してくれた。私が病気に負けないように、食卓にはいつも特別な料理がひしめいている。日本各地の料理はもちろん、東南アジアの郷土料理が日替わりで登場し、私のモノクロの夏は、鮮やかに彩られていく。私に残された時間は、味覚という愉しみで埋め尽くされるのかもしれない。ひょっとして、毎日が誕生日なのではないかと思えるほど、どこを切り取っても特別な瞬間ばかりだ。

私は最近、絵を描くのを止めて、代わりに母から教えてもらった俳句を趣味としている。毎日を彩るこの特別な瞬間を、自分のことばで書き残していく事に、私は新しい喜びを覚えたのだ。

出番がなく、背が高いままの22色のクーピー達は、きっと入れ物の中で嫉妬している事だろう。だが、彼らには少し我慢していてもらうつもりだ。その彩りは必ず、私のことばに宿るのだから。


『闘病や二十二色の夏料理』









一句一遊劇場 二十二の夏色篇【完】

企画、執筆 … 恵勇
料理画像協力 … 万里の森
風景画像協力 … 森中ことり
(敬称略)


一句一遊劇場 最終話 灼然たる生命篇


一句一遊劇場 物語の起点はコチラ↓


 ☆過去作品のご紹介☆


【句養物語 流れ星篇】

没句を編纂した物語の起点

【句養物語リプライズ】

作品の読後企画の返礼ショートショート

※全5話の目次にあたるページ

【巣立鳥】

鳥とか俳句とか出てくる嘘みたいな実話



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