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日本のワイン王「神谷傳兵衛」とは?

 「日本のワイン王」の異名を持つ神谷傳兵衛は、国内初の本格的なワイン醸造場「シャトーカミヤ」や日本で初めてバーの名を冠した「神谷バー」の創業者。ワイン「蜂印香竄葡萄酒」やカクテル「電気ブラン」の製造者として名を残しています。また、一代で莫大な財を成し、明治大正期に数多くの日本を代表する企業の創設に関わっています。渋沢栄一に匹敵する偉人と考えますが、何故か歴史に埋もれ、広く知られていないのが実情です。

表紙 写真(神谷傳兵衛)

 傳兵衛の人生を辿ると概ね次のとおり。
・江戸末期の安政3(1856)年2月11日、三河国松木島村(現西尾市一色町)生まれ。
・生家は豪農だったが、父親の代に没落。幼い頃から苦労を重ね、一時馬小屋に住むほど困窮。
・幼少期に姉の嫁ぎ先である知多(現阿久比町)へ行き、酒店の裕福な暮らしぶりを見て憧れる。
8歳で丁稚奉公。12歳のとき行商の仕事で独立。勤勉に働きますが、17歳のとき失敗して全財産を失う。その後、兄の勧めで横浜へ。フランス人が経営する洋酒醸造所で働き始める。
・あるとき、腹痛で危篤状態へ。医者が見放す状態だったが、フランス人経営主が勧めたワインを飲んだところ奇跡的に軽快。これがワインとの出会いであり、日本製のワインを作る夢を抱く。
・2年後、フランス人経営者が帰国したため、東京麻布の酒店で働くように。
明治13年、24歳で独立。浅草に酒店「みかはや銘酒店」を創業。現在の浅草一丁目一番地に当たるこの地は、後の神谷バーの所在地。
・同店は、工夫と努力で繁盛店へ。並行して研究を進めたワインの醸造はうまくいかず、まずは、輸入ワインを日本人好みの味に再製することに。「蜂印香鼠葡萄酒」として売り出したところ爆発的な大ヒット。海外への輸出も好調。
・さらに輸入ブランデーを原料に考案した「電気ブラン」。これも空前の大ヒット商品となった。
・こうして莫大な財を蓄えた傳兵衛は、いよいよ日本製ワインの夢に向かって本格的に挑戦。
・明治27年、婿養子の傳蔵をフランスに派遣し、葡萄の栽培と醸造技術を習得させた。
・明治30年、傳蔵の帰国に合わせ、茨城県牛久に120ヘクタールに及ぶ広大な土地を取得。
・明治32年、旭川に酒造工場を建設。
・明治34年から本場フランスに引けを取らない壮麗なワイン醸造施設シャトー建設に着手。
明治36年、「シャトーカミヤ(現牛久シャトー)」竣工。118年前に建てられた宮殿のような建物は、日本初の本格的なワイン醸造施設。国の重要文化財として今も当時の美しい姿を伝えている。
・明治43年に長期にわたる海外渡航。欧米での視察を通して得たことを多分野の事業に活かす。
明治45年、浅草の酒店を洋風に改造。日本初のバー「神谷バー」誕生。
大正7年、千葉県の稲毛海岸に稲毛別荘(国の登録有形文化財)を竣工。晩年、週末をここで過ごす。なお、ラストエンペラー溥儀の弟・溥傑が新婚時に同別荘近くで暮らしていた時期があり、姉妹が同別荘で暮らしていた事実がある。愛新覚羅家との奇縁も興味深い。
・大正10年、神谷バーをモダンな鉄筋コンクリート造りに。今もその姿を伝えている(国の登録有形文化財)。
大正11(1922)年4月24日、傳兵衛逝去。66年の生涯を終える。
近代日本の黎明期。酒事業の成功とは別に多分野の企業創業に関与。関係した事業及び創立に尽くした会社は60社、整理して存在せしめた会社16社、晩年重役の任にあった会社14社。
・例を一つ挙げると、刈谷市を拠点として明治の終わり1912年に設立された三河鉄道への参画。これは、三河出身の傳兵衛の地元貢献であると同時にビジネスチャンスの足掛かり。
・1916年、三河鉄道の社長に就任した傳兵衛は、碧南から刈谷までの路線を猿投越戸まで延伸。これは、延伸した先の地域で採掘される木節粘土に着眼したから。そこで生まれた構想は、その地で採れる高品質の粘土を鉄道で刈谷まで運び、煉瓦を作って東海道本線で関東へ出荷するというもの。
・すぐに構想を実現に移した傳兵衛。1917年、刈谷に煉瓦工場を建て、東洋耐火煉瓦を創業。その成功から1923年に豊田紡織、1927年に豊田自動織機の工場が刈谷に誕生。その後も刈谷駅周辺にトヨタグループの工場が集積するきっかけとなった。
・他にも日本石油精製、神谷汽船、九州炭鉱汽船、旭製薬、富士革布、輸出食品、日新印刷、日本運輸、日本通運、日本製粉、日本建築紙工、神谷貿易、東洋遊園地、三屋粘土、東京鋲鎖製造、帝国火薬工業、北海道土地など。傳兵衛が設立に関与した企業や社長を務めた企業は多数ある。
・事業の推進に当たり、各界の名士と積極的に交流。政治家では勝海舟、山岡鉄舟、榎本武揚、曾禰荒助、板垣退助、土方久元、軍人では大山巌、児玉源太郎、西郷従道など。明治の名だたる元勲など歴史に名を残す諸名士との交友を重ねており、そのスケールは大河ドラマ級。
・中でも近所に住んでいた勝海舟や榎本武揚とは互いに行き来する関係。また、剣の師匠であった山岡鉄舟との親交は深く、ちょうど20歳差で傳兵衛にとって父のような存在。明治21年3月に母を失った傳兵衛は、同じ年の7月に鉄舟との別れを経験している。
・また、事業の傍ら、慈善事業や文化事業への取組も精力的。自らは質素に暮らしながらも多方面に多額の資金を惜しみなく提供。大きな災害が起これば直ちに救済活動を行い、教育や神社仏閣、社会公益事業への関心も高く、桁外れの寄附を行っている。
・文化事業で特筆すべきは、傳兵衛と愛新覚羅家の縁。溥儀と溥傑のお父様、第2代醇親王とのお付き合いから始まり、傳兵衛が第2代醇親王から清朝の秘宝約600点を購入。晩年の1919年(大正8年)に他のお宝と合わせ、668点に及ぶコレクションをそっくり帝国博物館(現東京国立博物館)へ献納し、世間を驚嘆させている。

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◆印象的なところ、感じたこと
①ふるさとに対する思い
 父の俳号「香鼠」を取り入れた葡萄酒のネーミング。明治13年に浅草で始めた酒店を「みかはや銘酒店」と名付けたこと。後に地元の三河鉄道が窮地に陥ったとき自ら社長に就任し、私財を投入して救世主となったこと。資料の随所に見られる。成功につれ、愛着が増しているようだ。
②故郷と歌舞伎 
 傳兵衛が16、17歳のとき、松木島で行われていた村芝居。一色で歌舞伎が行われていた事実と「東京から来た師匠」の市川九蔵。調べると、九蔵は、当時の歌舞伎界で団十郎らと並ぶ三大役者の大物。屋号を見ると何と「みかはや」。このことにも驚く。
③各企業との関わり
 資料を読み進めると、明治大正期に偉人が50人、100人いたとすれば、そうした偉人たちに寄り添っていた人物が傳兵衛。偉人たちのパトロンのような存在だったことがわかる。
 例示すれば、松方正義が傳兵衛を呼び寄せて相談し、日露協約の関係で輸出食品株式会社を設立するくだり。また、偉人豊田佐吉は25歳のとき浅草に住んでいたが当時、傳兵衛のみかはや銘酒店が大きく飛躍していた時期。二人の関係にも想像が膨らむ。傳兵衛が刈谷に耐火煉瓦の工場を作ったとき、所長が大野一造。その子が「トヨタ生産方式」を築いた大野耐一。実業家の田健治郎と九州に炭鉱汽船の会社を作ったとき、所長とした橋本増治郎は、岡崎出身で後に田らと共に日産自動車の元となるダットサンを立ち上げている。このようにトヨタ、日産とつながるなど傳兵衛と偉人や名だたる企業との関係が次々と出てくる。
④袋井市にある護国塔の話
 現地に残る石碑には、伊藤博文、板垣退助ら明治の偉人100人が総登場。石碑には、それぞれの寄附金額と名前が彫られており、傳兵衛は1500円で一番上。但し、護国塔の建設過程で資金不足に陥ったとき、傳兵衛は1万円の資金を投入している。つまり、本当は、桁外れの11,500円であり、1500円というのは、控えめ。・・・。  
⑤総括的感想
 以上のとおり、傳兵衛という人物の偉人ぶり。近代日本の黎明期において、日本の発展を願い、尽力した姿。そこに一人の人間が持つ大きな可能性と人生の素晴らしさ、日本の誇りのようなものを感じて、感嘆した。

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