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2021 / 1 / 8 の星の声


眠りから覚めた調べ


朝起きたら、メモが2枚ありました。



" シリウスと水星の主響 "

いったいどれほどまでの歳月が経ったのかわからない。人々の衣服や住まいだけでなく、あらゆる風景が大きく様変わりしていた。眠りから覚めたものは、こう言った。

「この世界を見るならば、遠慮なく目を見開くといい。地の果てまでに限らず、海の底、空の彼方までも見透す視野ならば、深遠な宇宙も手触りとともに感じることができるだろう」

どうして今、こんなにたくさんの雪が降るんだろう。
どうして今、見知らぬ土地で、見知らぬ誰かが息を引き取ったんだろう。
どうして今、吐き捨てられた悪口が、自分の耳に届いたんだろう。

人間をしにこの星に生まれて、それぞれの視界の中で生きていれば、そのような声が身の内に響き続けていることがわかる。ひとりだと点のように思えるかもしれない。しかし、響きは決して点ではない。

天地万物に響く鼓動が浮かばせる艶かしい帯は、球を描くように全宇宙を取り巻く。点のように思えるひとりは、その帯のあちらこちらに含まれた全体なのだ。帯には流れがある。

くるぶし程の浅瀬で溺れることはない。揺蕩う煌めきは星のようだ。光はただその身を委ねている。もしそれが、人間ひとりひとりであるならば、あなたは一体何を思うだろうか。


氷で覆われたまま長らく息を潜めていた龍がうごめきだしたのは、怒号や銃声、火事場で音を立てる炎火がきっかけだった。融解した氷はかつての人々が龍を封じるために張った結界なのだが、人々への慈愛に満ちた龍の意志もまた凍って、風化しないまま現代に至った。

妙なる調べが鐘のように鳴ったことがきっかけで、氷塊のごとく青を潜めた、膨大な数の白龍が天を泳ぐようになった。人々の暮らしを容赦無く包む風雪は、一瞬で世界に余地という白を与えた。時間が積み重ねた善悪のない汚れを、自分ごととして捉えて麻痺してしまった人々のために真っ先に必要だと、龍は感じたのだ。

凝り固まった思想や観念の中に生まれた真っ新な白は、人々の体温に触れて徐々に溶けていくと、そのうちにぽこりと空洞ができた。すると、そこに風が通り始めた。風は汚れをはらって、調べを乗せて縦横無尽に走った。見過ごされていた隅々にまで、風は行き届いた。


どうやら、メモにはそのように書かれていたそうです。まだ読み書きのできない坊やは、仕事に出かける前のお父さんをつかまえて、メモの中身を読んでもらいましたが、なんのことだかさっぱりわかりませんでした。お父さんは「ふうむ」とだけうなるとそのまま仕事に行ってしまいました。

お母さんにも聞いてみたのですが、お父さんと同じように「ふうん」と言うだけで、坊やにはなんにも教えてくれませんでした。坊やはあきらめて、窓辺から空を眺めることにしました。

外は雪がたくさん降っていました。白い空は、おそらく雲でいっぱいなのかもしれませんが、坊やの知っている雲の形は見当たらず、一面、刷毛ではいたような乳色でした。

お父さんが玄関から出て行った足跡が見えました。もうずいぶんと雪が降り積もって、足の形は音もなく消えてしまいそうでした。いつもなら、車が走る音や、干した布団を叩く音、鳥のさえずり、近所のおじさんの薪しごとの音などが聞こえてくるのですが、この日はひとつも聞こえません。

坊やがもう一度空を見上げると、白い龍が飛んでいました。こんな日でも、龍は人間のために、あちこちを飛び回って忙しそうです。坊やはお父さんみたいに働き者だと感心しました。

坊やが白い龍の様子を見ていると、白い龍は坊やの方に顔を向けました。坊やの持っている青いビー玉よりも、ずっときれいな青眼でした。坊やは白い龍の声を聴くと、すぐにお母さんに言いました。お母さんは一度こちらを向いて、にっこりと笑うと、

「じゃあ、だいじょうぶね」

と言いました。坊やは、言葉の意味はわかりませんでしたが、お母さんと同じように思いました。お母さんはテレビを消してパソコンをつけると、どこかちがう国の人と画面を見合って楽しそうに話し始めました。お母さんは最近、英語の勉強をしているのです。坊やもお母さんのように勉強がしたくなりました。

お父さんに買ってもらった数字の勉強ができる本を一枚一枚めくって、数をかぞえはじめました。

「いーち、にーい、さーん、しーい」

お母さんはイヤホンをつけていて、坊やの声に気づきませんでしたが、画面の向こう側の人が坊やの声を聞いて微笑むと、お母さんにこう言ったそうです。

「今日はあなたも、数をかぞえられるようになりましょう」

坊やはどんどんページをめくって、数をかぞえていきました。

「じゅーいち、じゅーさん、じゅーのん、じゅーもん」

この日、お母さんは数字を30まで数えられるようになったそうです。ほんとうは100まで数えられるけれど、ハツオンがむずかしいんだと、坊やに言いました。坊やはハツオンのことはどうかわかりませんでしたが、じゅうひゃくまで数えられるようになったと、お母さんに自慢しました。

すると、お母さんは先ほど坊やが渡した2枚のメモを、もう一度見ました。ひとつひとつ言葉を口にしながら読んでいきましたが、しばらくすると読むのをやめて、お母さんはこう言いました。

「お母さんはね、今どうして英語を勉強しているか、わからないの。でもね、やりたいなと思ったからやってるの。だから、とっても楽しいわ。これがなんの役に立つんだって、ふと我に帰る時もあるけどね、お母さんが思ってもみないようなことにつながりそうな気がしてる。根拠はないけど、そう確信してるの」


幼くてまだ言葉もよくわからなかったはずなのに、どうして母の言葉を覚えているのかと、男は我ながら感心しました。彼の母の言葉は、それから20年も後に思わぬ形で結実したのです。そこに至るまでに、お互いに紆余曲折があったことは間違いありません。ただ、今彼の両親は遠い異国の地で、次なる人生を謳歌しています。

あの頃と同じように、その日はしんしんと雪が降る日でした。空には相変わらず白い龍が泳いでいます。彼は龍の姿を眺めながら、こう思いました。

「点をつなげようとするんじゃなくて、点はもともとつながっているものだから、どうつながるのかは、今というその時に、自分がどんな心地で、何をしているかによるだろう。だから今、やりたいことをやろう。楽しくてしょうがないことをしよう」


それは、かつて彼が坊やだったときに、雪空を泳ぐ白い龍から聴いた言葉でした。




今週は、そんなキンボです。




こじょうゆうや

あたたかいサポートのおかげで、のびのびと執筆できております。 よりよい作品を通して、御礼をさせていただきますね。 心からの感謝と愛をぎゅうぎゅう詰めにこめて。