エペソ人への手紙2章1〜13節契約を守ってくださる神⑩「思い出してください。驚くほど大きな恵みを。」

「ですから、思い出してください」。

エペソ人への手紙の著者は、
読者である私たちに呼びかけます。

これまで、私たちは聖書に記されている契約について学んできました。

神はアブラハム、モーセ、ダビデを通して契約を結ばれ、
イスラエルの民と共に歩まれました。

その契約に私たち異邦人は入っていませんでした。

神が人類の代表として選ばれたのはイスラエルの民であり、
私たちではありませんでした。

しかしそれはイスラエルによって
地のすべての民族が祝福されるための準備でもありました。

そしてついに時が満ちて、イエス・キリストがこの地上に来られたのです。

イエスはご自分の血をもって契約を新しくされました。

イエス契約にはイスラエルの民だけでなく、
私たちも加えられています。

かつて遠く離れていた私たちが、
今やキリストの血によって、神の前に近いものとされたのです。


これこそが、
2:7の「限りなく豊かな恵み」です。

このように脈々と受け継がれてきた
契約による祝福の恵みの中に、私たち個々の救いがあります。

思い出してくださいと促されているのは、
個々の救いの体験についてではありません。

神ご自身が長い歴史の中に働かれ、
イエスにおいて完成された「限りなく豊かな恵み」の中に
私たちも置かれていることを思い出すよう促されているのです。


しかし私たちは、
この「限りなく豊かな恵み」ではない、
ズレた恵みの理解をいつの間にか持つことがあります。

それぞれの時代の主義主張による影響を私たちは受けるからです。

恵みの理解について個人主義的な側面を強めすぎるなら、
恵みを受け取るだけに十分な理由を自分のうちに探し始めます。

恵みは、いつの間にか恵みでないものに変わります。

それは私たちのうちに高ぶりと高慢を植え付けます。

「信仰を持っている私は、未信者のあの人よりも優れている」と
見下すような思いになります。

そして教会の中にあっても、

「信仰的」と思える行いを競うようになるのです。

旧約聖書とイスラエルの民なしの恵み理解は、
教会をいのちないものに変えてしまうのです。


神の壮大な物語の中に
自分が置かれていることを思い出す時、
私たちのこのような傲慢さは打ち砕かれます。

祝福を受けるために、私の行いを挟む余地がないことは明らかです。

反対に、
私たちが他者を祝福するための良い行いは
「あらかじめ備えられ」ているのです。

ですから今日も、驚くほど大きな恵みを思い出しましょう。

この恵みこそが、いつでも私たちのスタート地点です。

本日の説教を振り返るために

① 信仰生活の中で、他者と比べて不安や優越感を持つことはありますか?

② 旧約聖書とあなたの信仰との間には、どのような関係がありますか?


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