小説「倫理回路」第一話(全三話)
《――二月十四日午後七時頃、東京第三区の一軒家にて、男性の遺体が発見された。死因は胸部の圧迫による窒息死と考えられ、警察は原因の究明を急いでいる。関係者の証言によると、男性の部屋には複数体のロボットが置かれ、その殆どが性処理用の女性型だったという。 二月十五日 朝刊》
道行く人の首筋に、水滴が浮かんで光っている。僕は鞄をぶら下げて、目の前に広がる街並みをボウッと眺めた。人波はうねり、赤、青、黄色、その他ありとあらゆる色彩や図形が、彼らを彩り踊っている。
目的の書店は、列車の発着場に隣接していた。綺麗に装飾された店が建ち並ぶ中で、古くさく、どことなく貧しい風体をした硝子扉の向こうには、日に焼けた背表紙が所狭しと並んでいる。僕は、自分が今し方出て来たばかりのそれを振り返り、静かで、他の場所とは全くの異国である、と言う風な感じのするその区画を、一つ写真に収めようと思い立った。
――それにしても、一体どうしたってこんな店が、今日まで生き残ってこられたのだろう。今時紙の本だなんて、よほどの物好き以外読むものだろうか。
パチリ、と小気味良い音がして、旧式の機械がシャッターを切る。フレームは歪み、所々塗装の剥げた撮影専用のその装置は、他ならぬ彼女のくれたものだ。
僕は書店に背を向けて、一人、粘っこい日差しの中を歩き始めた。
――全く、他人という奴はどこまでも鬱陶しい。
頭、頭、頭が並び、視界がぐるぐると回転を始めた。軽微で深く根を伸ばす、神経性の吐き気を催す。胸を穿って指を差し入れ、優しくかき回してやったとしたら、丁度こういう感覚だろう。
僕は昔から、人混みが嫌いだ。自分が、果物屋の軒先へ乱雑に並べられた、檸檬か何かに思えてくる。その上、この暑さときたら……。
技術が幾ら進歩しても、夏を涼しくすることは叶わない。少なくとも僕が死ぬまでに、この汗が拭われることはないだろう。頬を伝う水滴が、柔らかく皮膚を撫でている。こそばゆい感覚に眉をしかめ、何となしに空を見上げた。
太陽は力強く、じりじりとこちらを睨んでいる。ぐるぐると回転し、ドロドロと零れ、ともかくそういう、しつこく陰鬱な、それでいて凶暴さに満ちた表情を、他でもないこの僕に向けているのだ。
太い車道を挟むようにして、二本の歩行者用路が続いていた。洒落た赤っぽい石畳。プラスティック製の青いゴミ箱。黒い鉄製の支柱が並び、時折小さな紙切れや、機械の部品が転がっている。
背後を遠く、列車が轟音と共に走り抜けた。ぬるま湯のような小さな風が、頬を優しくなで回す。僕はそこから逃れるように、人混みをかき分け足を早めた。
「ロボットの電波は有害だ!」
「ロボットは鬱病の原因だ!」
時折視界に、そんなことが書かれたポスターを、配布している者が現れた。路上の端っこに、大量のそれを持って陣取る彼らは、汗でしわくちゃになった三色刷の紙切れを、道行く人に押しつける。時にそれは若者であり、あるいは老人である。時にそれは女であり、あるいは男だった。
繁華街に近頃見られる彼らの姿は、日に日に数を増やしているように思われる。
――連中が、自分の家の近隣にまで、やってこなければ良いのだけれど。
彼らの言説は、未だ僕の心を圧迫する件の記憶を、粗雑に、それでいて的確に刺激する。
これがどうにもならないことには、夏休みが終わったとして、大学へ行くことなど到底できまい。
――決まった時間に目を覚まし、にっこり微笑む唇の色。
――衣擦れと、僅かに響くモーターの音。
――そして何より、紙の本をめくっている、少し痩せ気味な後ろ姿。
深く、溜息をついた。それが唯一、僕に出来る、記憶に対する抵抗だったのである。
「ロボットは人間を殺す!」
見れば、一人の男が、紙切れを差し出しながら微笑んでいる。平凡で、温厚で、無害な顔をした中年のその男は、額に汗を浮かべつつ、ずい、とこちらに近寄った。それから、僕がその場を一歩も動かずに、じっと彼の顔を眺め、にもかかわらずポスターを受け取るそぶりすら見せないのを前に、チョ、と一つ舌打って、素早く姿を消してしまった。
僕は再び、歩き始める。やがて人波は緩やかな上り坂に差し掛かった。道は幾つかに分かれながら、人々を惑わそうと画策している。
――一体、これから僕は何処へ行ったら良いだろう……?
鞄の持ち手が汗に濡れて、何かの拍子に取り落としてしまいそうになる。息をする度、どんよりとした嫌な空気が肺に満ちて、身体を濁していくようだった。
「ロボットなんだから、記憶に直接書き込んでしまえばって思ってる?」
ふと、彼女の言葉が蘇る。
「まぁ結局、小説なんてただのテキストデータだし、その方が効率的で、正確に読めるのは確かだよね」
背中にケーブルを突き刺して、蓄電する最中に、彼女はいつも、紙の本を持っていた。
「でもさ、小説ってのは娯楽だよ。効率を求めて、どうするの」
鞄がずい、と重たくなって、先の店で購入した一冊が、自己主張を始めている。無数に陳列してある中、どことなく目を惹かれたその本は、いつバラバラになっても可笑しくないような、儚げな印象を僕に与えた。
「周囲の環境までを含んでこその読書、それでこその娯楽だと、私は思っているけどな」
シリコンの肌は、人のように温かく、それでいてとても人とは思えぬほどに、白く輝き闇に浮かぶ。小さく綺麗な渦を巻く耳が、艶のある黒髪から覗いて、傷一つ、染み一つない頬と共に、柔らかい曲線を見せていた。首筋には、桜色の刻印がなされ、それだけが、唯一彼女の非人間性を証明している……。
汗が目に入り、視界がにじんだ。何度か瞬きをして、額を拭う。首に巻いていたタオルはいつの間にかぐっしょりと濡れて、自己に対する嫌悪の念を抱かせた。
――彼女たちは、汗をかかない。また食物を腔内で汚らしく咀嚼することもなければ、「かす」を排出することだってないわけだ……。
疲労が、どっと肩にのしかかってくるような感じがした。
再び、大空を仰ぐ。雄大なそれはどこまでも青く、僕をあざ笑うかのように見下ろしていた。
あの日、友人と喫茶店で交わした会話は、その全てを克明に記憶している。おそらくは紙とペンさえあったなら、今すぐにでも書き起こすことが出来るだろう。あるいは、僕が彼の振りをして、実際に話をするのも良い。単語一つ一つの調子や、息継ぎの位置、一寸した沈黙に至るまで、あらゆる要素を悉く、再現できる自信がある。
「どう思うって、そいつは心底、馬鹿げているとしか言いようがないな」
窓硝子を隔てた先に、街を歩く人々のせわしない足取りが目に入った。この頃ようやく暖かみを帯び始めた陽光が、氷水の入ったグラスを控えめに照らしている。友人は指先を立て、トントン、と落ち着きのない様子でテーブルを叩いた。トントン、トントントン、トン、トントントトトントト……トン。
「馬鹿げてる……かな」
馬鹿げてるとも! と、彼は芝居がかった仕草で両手を広げた。それから、ふと何かに思い至ったような顔をして、低い声でそっと尋ねる。
「よもや、君。あんな機械に情愛の念を抱いたわけじゃあるまいね」
「まさか!」
僕は慌ててかぶりを振った。
「そんなわけがないだろう。僕はつまり……その……議論だ! 議論をしてみたいと、そう思っただけなんだ」
彼は安心した、という風な表情で、背もたれにどっと身体を預けた。グラスの中に浮いていた氷が、その拍子にカラン、と小気味良い音を立てる。表面にはびっしりと滴が浮いていて、その一つ一つに、どこか魂の抜けたような顔をしている、一人の青年の顔が映っていた。
「つい先日、ロボットとの婚姻が認められたという話は、僕も聞き及んでいるさ。あるいはそれを子供に見立てて育てるのが、ごく一部で流行しているというのもね。だが、あえて言おう。……つまり、ロボットが人間社会へ浸透していくというのは、他ならぬ人間の死を意味するのだと、ね」
だが、と僕は殆ど反射的に口を開いた。
「だが、例えば同性愛が少数派だった頃、それを敵視していた社会と、一体どう違うだろう。君の言うそれはつまり、少数の嗜好を否定して多数派を正義と断定する、大時代的な価値観が、少しばかり外面を変えただけなのだと、そう言うことは出来ないかな」
「確かに君の言うとおりかも知れない」
と彼は応えた。
「しかし、同性愛と決定的に異なる点は、アレらが断じて、人間などではないという点だよ」
「それで不都合が起こるとは、思えないけどな。……親愛の対象が機械だろうと人間だろうと、さして問題はないんじゃないか」
友人はぐい、と身を乗り出した。
「それが大ありなのさ。こいつは、知識人の間で語られていることだがね、機械に対する情愛の始まりは、ひいては万物への情愛、最終的には究極の無関心への始まりだと、そういうことなのだそうだ」
それより何より、とあたかも自明の事実のように、彼は溜息と共に口を開く。
「それより何より、あんなものはただの機械だ。自動的な反応をしているに過ぎない。そいつを人間だと思うのはただの錯覚だし、入れ込むのはただの……」
――異常者だよ。
無数の頭部が果てしなく並び、ゆらり、ゆらりと流れていく。ベルトコンベアーに乗せられた商品のように、脳みそを詰め込んだ球体は、ぞろぞろ何処へか向かっていた。厄介なのは、これらが単なる商品でなく、更なる商品を生み出すための装置でもあるという点だろう。
たった一組でもそこにあれば、もう誰にも止められない。二は三になり、三は四になり、彼らはそろって、周囲のあらゆるものを食い散らかす。そうして全ては、汚濁した物体に変えられてしまうのである。
例えば美しく盛られた食物は、唾液と共に咀嚼され、いつしか姿を変化する。崩壊し、結合し、醜悪なソレへと、哀れにも退化を強いられるのである。
その光景は、傍目に見ればゆで卵にも似ているだろう。黄身の代わりに汚物が入っているそれは、二つに割ったとき、得も言われぬ臭気を漂わせ、純白の表層とのコントラストを網膜に焼き付ける。
卵が、十、二十、三十と並んでいた。割られやしないか、割れてしまいやしないだろうかと、周囲をちらちら伺いながら……。
人間とは、言ってみれば汚物生産工場のようなものなのである。
――では一体、彼らに存在する価値はあるのだろうか……?
分かれた道の一つを進むと、外壁を白く塗られたデパートが、ゆで卵のように鎮座していた。人波は次々と吸い込まれ、あたかも腔内へと放り込まれる食物のように、粛々と誘惑に従っている。
開け放たれた扉からは、涼やかな風が、若干の勢いと共に、絶えず走り出していた。髪を僅かに揺らしつつ、陽光に挫けるその様子は、儚く、美しく、どこか少女の姿を連想させる。
僕は、内部へと踏み入れた。
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