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『阿修羅ガール』感想/そしてゼロ年代とは何か

 本作は、ゼロ年代を「批評する小説」だ。ゆえにまずは、ゼロ年代、そしてその前触れとなった90年代後半から話を始める必要がある。

 90年代後期からゼロ年代にかけて生み出されていた作品に、一つ「自我の問題」という共通項を見出すことができるだろう。『エヴァンゲリオン』『攻殻機動隊』『PERFECT BLUE』『妄想代理人』、そしていわゆる「セカイ系」にもいえることだ。

 ところで、セカイ系とは何なのか。最初期、この言葉に充てられていた定義を挙げれば、「エヴァっぽい」作品ということになる。しかし今日、ネットで少し検索すれば、異なる回答が出てくることもあるだろう。
 例えばそれは東浩紀らによる「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(『きみとぼく』)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」というものであったり。
 あるいは前島賢の言を借りれば、物語を破綻させてまで自意識というテーマを展開させようとした『エヴァンゲリオン』(ことにその後半部)というアニメ作品の影響で「みずからのジャンルの虚構性、チープさを明らかにした上で、なおかつ真摯な物語を語ろうとした」作品群であるという。

 しかしここで重要なのは、定義ではない。セカイ系は、物語の破綻を招いてまで自我を語った『エヴァンゲリオン』を起源とし、社会や国家といった具体的な中間領域を描写せず(つまり自分の身近にしかリアリティを感じられず)、そして「みずからのジャンルの虚構性、チープさを明らかに」する側面を持っていた、ということだ。
 セカイ系は少なからず「自我」への関心を内包しているといえるのである。

 これは、セカイ系の後継となる「日常系」にある面では裏付けられる。自分とは何か。自分はどこにいるのか。そういう「自我への関心」は、直接的な形ではエヴァンゲリオンに描かれて、やや間接的な形でセカイ系に描かれて、そして単に「日常」に注視するという形式で「日常系」へと帰着し、やがて霧散する。

 では、なぜこのような形で「自我の問題」はゼロ年代作品に影響を与えていたのだろうか。「エヴァがすごかったから」という話ではない。「なぜエヴァをすごいと感じたのか」という話である。一言でいえば、それはエヴァの描く「自我の問題」が切実なリアリティを持っていたからであり、読者がリアリティを感じる土壌がすでにセカイにあったからだ。だからこそ、エヴァンゲリオンやセカイ系の文脈とは無関係な『攻殻機動隊』や今敏作品にも、やはり同様の主題が見られるのである。

 これらの作品で描かれた「自我の問題」の根源、「読者がリアリティを感じる土壌」の発生源は、一体どこにあったのだろう。90年代後半からゼロ年代にかけて起こった、社会の大きな変化は何か。何をおいても、まず第一に「インターネットの普及」である。

 1995年にはMicrosoftがWindows95を発売している。当時としてはまだ珍しくネットに接続できる機器であり、「インターネットが一般に普及する大きな契機となったといわれている」。(※)
 また、「1999年には匿名掲示板『2ちゃんねる』が開設されている。特に『2ちゃんねる』は、掲示板上で起こった様々な出来事が他のメディアで取り上げられたことで広く知られるようになり、利用者が増加したとされる」。(※)

 90年代後半からゼロ年代にかけて、人々は「インターネット」という怪物の誕生を目の当たりにしていた。良い面も、また悪い面も。この空気感は、特に今敏監督の『PERFECT BLUE』に濃密である。人類が初めて目にした「匿名」のセカイ。そして、自分の意志とは無関係に増幅し改変し暴走する情報のセカイ。
 ネット上に立ち現れる、自分の名前を語る誰か。現実の自分は本物か。ネット上に描き出される「自分」は一体何者か。身体性のみに支えられていた旧来の「自我」が崩壊していく物語こそ、『PERFECT BLUE』だったのである。
 このようにして、インターネットは「自我の問題」を浮き彫りにした。どこかの哲学者に背負わされていたこの問いは、あまねく人々が直面する、切実な問題になったのである。これが、ゼロ年代なのだ。

 さて。本題に移ろう。
 舞城王太郎による『阿修羅ガール』。本作はゼロ年代を「批評する小説」であろうと思う。2chや酒鬼薔薇聖斗といったあの時代の空気感が、克明に描き出されている。

 第一部。女子高生の地に足の着いた視点から、セックス、猟奇殺人、ネット掲示板、暴動、そういったモノが日常のすぐそばで混沌とするさまを描写する。

 第二部。臨死体験という強引な道具で、「地に足の着いた視点」から、より俯瞰的な視点へと移行する。社会を批評するには、まず材料が必要だ。猟奇殺人鬼の日常とか、ネット上に生まれ、同時に自分の中に存在するという「怪物」の姿とか。

 第三部。二部で用意した材料を用いて、批評が始まる。一部にあった等身大な少女の語りは薄らいで、ぽつりぽつりと社会批評と内省が始まる。物語として「きちんとした」終わりがあるわけではなく、どこかエヴァンゲリオンを彷彿とさせる構成だった。

 やはり印象に残るのは、物語においてきわめて重要な位置を占める「天の声」と呼ばれるネット掲示板の存在だろう。書き込みから始まる定期的な暴動は「アルマゲドン」と呼称され、宗教的なモチーフにより全体に統一されている。おそらくは、合理(科学)社会の産物であるインターネットが、結果として非合理(感情/宗教)のたまり場(=森の奥の怪物)となった皮肉であろう。ネットがいかに存在感を持っていたのか、すっかりなじんだ今日からは、想像できない世界である。

「私がバラバラになってあそこにいたのと同じで、グルグル魔人と他の人も、今もあの暗い森の中で、あの大きくて悪意がたっぷりの怪物の一部になって、さらにたくさんの人をバラバラにしてくっつけて、体を太らせていってるのだろう。バカな子供の悪意が集まると怪物的な事象が起こるのだ。例えばアルマゲドン(論者注:暴動)のような」

「まったく私の中でだって、あの怪物を解釈することもできる」

「どんな人間にも、その怪物を封印する暗い森があって、そこでそれぞれの森の怪物を絶えず養い培い膨らませているのだ」

「そして皆、一人一人が持っているその暗い森というのは、行き来がまったく不可能という訳ではなくて、まあ何かの拍子とか、偶然とか、ある種の能力を持ってたりして、あっちとこっちを行き来できるのかも知れない」

舞城王太郎『阿修羅ガール』(新潮文庫)

 ところでわたしは、この文章の多くを割いて、「自我の問題」を語ってきた。それこそがゼロ年代の根本である、と。舞城も、やはりここから逃れることはできなかった。というよりも、逃れてはならなかった。

「でもそんな風に、何かを自分が作り上げたイメージってことにしてしまえるなら、私自身だって架空の存在なのかも知れない。我思うゆえに我ありって言うけれど、もし自分と他人がどっかでくっついていて、相手の内側にお互い入ってこれたりするんだったら、ホントに我思ってるの?ってことになる。我思ってるつもりで、実は別の誰かが思ってることもありえる訳だから、我思ってると我思ってるけど、我思ってるんじゃなくて彼思ってるのかも知れない。じゃあ我ありってことにならない」

舞城王太郎『阿修羅ガール』(新潮文庫)

 第三部、俯瞰的な視線を獲得した主人公が、社会批評を、そして内省を始める場面。当然のように、彼女はネットがもたらす「自我の問題」に直面する。しかし、興味深いのは、舞城が次のような結論を引き出している点だ。

「で、我思う我ありってのが私の中で壊れちゃった今、じゃあどうするかってうと、どうもしない。我ありってことが疑わしくてもいい。つーか、我なくてもいい。自分の存在が確信されなくても支障をきたさない」

人が今やってることが、その人の選んだ、自分にとって一番楽しいことなのだ。うんうん。私が楽しめないのは痛みと恐怖で、だから私はあの怪物を否定し、あの暗いモミの木の森をないことにし、今いる世界を楽しんでいる。
 楽しいよ。
 相変わらずバカなことばっかりだけど」

舞城王太郎『阿修羅ガール』(新潮文庫)

 ここに見られるある種の「開き直り」は、現代の私たちにとって極めて共感しやすい内容だろう。匿名の世界で暴走する自身の感情は、もはや特別な問題ではなくなった。ネットという「怪物」がもたらす「自我の問題」は、私たちが「慣れる」ことで解決してしまったのだ。

 ゼロ年代は、セカイ系は、「自我の問題」に初めて直面した人類が、必死に思考した結果であった。そしてその終焉は、デジタルネイティブの出現や社会へのネットの浸透に伴う、「案外何とかなるじゃん」という安堵感に由来するのではないだろうか。

 ところで注意してほしいのは、ここで問題が「解決」したわけではなく、ただわたしたちが「慣れ」てしまっただけ、という点だ。ゼロ年代の、セカイ系の「魂」は、まだ死滅したわけではないのである。
 メタバースが、近年話題を呼んでいる。現実世界と比重を同じくするもう一つの「セカイ」を作る――。ならばそこには、必然的に「自我の問題」が絡んでこよう。
 現実世界の自分とメタバースの自分、どちらが「本当の自分」なのか?
 
旧来のネットにはない「身体性」を伴う第二のセカイは、この問題をかつてないほど強いものに育て上げる、大きな可能性を秘めている。
 メタバースが普及すればするほどに、「自我の問題」は万人にとり切実な問題として再浮上するのだ。

 その時現れる作品群が、「ゼロ年代」の焼き直しなのか、あるいは更なる進化を遂げた何かなのか――。
 わたしは密かに、これを「きたるべき三十年代」と呼称して、楽しみに待とうと考えている。


※ 総務省|令和元年版 情報通信白書|インターネットの登場・普及とコミュニケーションの変化 (soumu.go.jp) 最終閲覧日2022/05/08

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