見出し画像

第一回かぐやSFコンテスト最終候補作感想

候補作品は以下のサイトで公開されている。


①「Eat Me」

現実に居場所を失って、図書館に魂を、社会に肉体を捧げる、主人公。成長する学校図書館に就職する者たちは、例外なく「マザー」の内部に吸収されて、今度は吸収する側に回るだろう。繰り返される永遠。図書館という名の永久機関。強制と支配の社会(物質世界)から、逃れるための図書館(精神世界)の姿が垣間見える一方で、社会に居場所をなくした人間は、社会の不足をその身をもって補う以外、受け入れられる道はないという残酷さも描かれていた。初読でテーマが見えづらかったものの、奥には様々な思考が詰まっている印象。

②「未来の自動車学校」

ユーモアあふれる会話で始まり、ユーモアあふれる会話で終わる。会話のみで作品を完成させるのは、ことSFという特殊なガジェットを用意することの多いジャンルでは多少難易度が高いように思っていたが、作者にとってそんなことはなかったらしい。例えば、「シミュレーション」にも色々ある。VRかもしれないし、車の窓ガラスがテレビ画面になっているのかもわからない。しかし、非現実の車に人間が乗り込み、車載AIと話している、という冒頭の状況を描写するのに、そんな些細な設定は不要なのだ。そういう、取捨選択による適切な描写が上手だと感じた。

ところでこのような取捨選択が成立するには、登場するガジェット——「シミュレーション」等々——のイメージが、読者に共有されていることが前提となる。最新技術であればあるほど、遠い過去のものであればあるほど、成立は困難となるだろう。例えば攻殻機動隊で描かれる「電脳空間」という概念があるが、アレを小説で書こうとする時、私はどうしても「一切予備知識がない人」のことを考えてしまう。「これで伝わるだろうか?」「もっと仔細に描写した方が良いのではないか?」そういう意味で、この作品からは、いわば読者への厚い信頼が感じられた。私も見習いたい。

③「Moon Face」

月男を唯一理解できる人間としての、優越感を失った主人公は、男の死と同時に崩壊したそれを再構築するため、月へと送られる才能を目指す。月男の結末をなぞる研究成果と、主人公の末路。円環が美しい一方で、心理描写に若干の物足りなさを感じてしまった。与えられたものに満足しない人間の利己主義的精神や、本質的に抱えている劣等感を描き出し、他への支配を急ごうとする我々の行動原理を提示する。

④「子守唄が終わったら」

冷凍睡眠装置によって、不景気の際には眠りについて、好景気になると労働へと駆り出される。一部の資本を持つ特権階級に、翻弄される市民の姿がそこにある。転機が訪れるのは、未知の病気による世界規模の感染爆発が発生した時だった……。我々にとって、主観的「世界」と客観的「世界」は必ずしも連続しない。ニュースで流れる交通事故は、どこか非現実のような印象とともに、あくまで「他人事」として耳に入る。しかし、世界規模の事件というのは、主観的世界と客観的世界とが、全く同一の土俵にあるということを、はっきり意識させてくる。イタリアでもイギリスでも、日本と同じように、自分の身の回りと同じように、感染を恐れているのだ! そういう実感。そういう発見。主人公含む労働者たちは、冷凍睡眠装置からあぶれることで、「凍りついた」人生を終えようとしている。しかしその危機の一方で、自らが初めて、世界に所属することへの喜びが、どこか漂っているようだった。背後に潜む、人工知能の不穏な様子にも注目したい。

ところで、冷凍睡眠装置とは、いったいどういう機械だろう。文字通り人間を「冷凍」する装置としたら、ウイルスや細菌の動きも止まり、病気に感染することはないのではないか。だとすれば「睡眠時間が長い人間ほど病気にかかりにくいことがわかっている」という設定は不要だろう。些細であるが気になった。

それともこの感染症は、人工知能が引き起こしたものなのだろうか。「こんなものをずっと向けられたら精神が壊れかねない」そうである。

あるいはまた、「睡眠時間が長い」というのは「より遠い過去からやってきている」ということであり、即ち「精神感応が下手」ということになるのかな。一見辻褄は合っているように思えるものの、ここまでくると読解ではなくいわゆる妄想の域ではないか。

明瞭に思えて、どこか不透明な作品だった。

⑤「あれは真珠というものかしら」

「白玉かなにぞとひとの問ひしとき露とこたへて消なましものを」
在原業平が恋人を連れて逃亡し、古い建物で一夜を過ごす。業平は戸口で番をするが夜のうちに恋人は鬼に食べられてしまう。「実際には高子の兄たちが追って来て、裏口から入って妹を連れ戻したのです」と教師は語った。「鬼(兄)」によって別れを強要されるこのエピソードは、本作で重要な要素となる。

「業平が恋した女性が、鬼(兄)に奪われる」という構図は、まず、「仲間とともに学んでいた主人公(女性)が、人間(鬼)に連れて行かれる」という構図と重なるだろう(これは真珠というものかしら、という台詞から、最も表層的な重ね合わせとして見られる)。あるいはまた、無意識に宇宙へ飛ばされたライカ(不幸)と、意識しつつ宇宙へ飛ばされる主人公(幸福)の対比に目を向けるのも良いだろう。幸福から不幸へと、人間=鬼によって連れ戻される、動物全体としての悲劇も見出せる。

ともかく、ここで注目しなければならないのは、主人公達から見る外部の人間が、一貫して「鬼」の役割を担っているということだ。

作品終盤、火星へと向かうことになった主人公は、地球へ戻ってくることを妄想する。「火星での仕事を終えて地球に戻ってくるとしたら、きっと太平洋に着水する。碩堰に見つけてもらえたらすごく嬉しいし、わたしを回収する船に修理亮が乗っていたら、それってちょっとした同級会じゃない?」前段で、私は「外部の人間が」と書いた。主人公の仲間にも、人間が含まれているからだ。主人公を含む生徒の面々は、人間を含め「普通」ではない。だからこそ仲間たり得たのだと考えられるが、それにしても「人間(=鬼)」が、「チンパンジー」「海馬」と共に並ぶというのは、やはり無視はできないだろう。

なぜ、鬼(人間)が、女を食べてしまうと同時に、別れを強要される男の側にも居られるのだろうか。「同窓会」という言葉からして、主人公は三者が共にいた教室を、好ましく思っている。もっと言うと、その状況こそが、著者の唱える理想なのではあるまいか。

人、海馬、チンパンジー。この三者を分析していく。まず、海馬は「魚」と「馬」の混合である。前者は海の消費物であり、後者は陸の消費物だ。チンパンジーは、人間よりも知能が低い、いわば純粋に下等な存在と言えるだろう。現在における自然の上下関係は、人間を頂点にしたヒエラルキアを形成している。作品中にも描かれている、人間によってあちらへこちらへ、様々な面で「連れ去られている」状況の、根本的な原因と言える。しかし、教室では違うのだ。三者は平等で、友ですらある。そこに上下関係などありはしない。

人類は、自然を支配することを発展と信じて歩いてきた。近年多くの人間によって唱えられている異議の一つに、本作も数えられるのかもわからない。

しかし、我々はもう一つ、本作において重要な存在を見出せる。教室を管理し、圧倒的な力を持つ「先生」である。言ってみれば「鬼」である。主人公は、教室を好ましく思いながらも、特段何かをなすことはない。火星行きに抵抗しない。社会に働きかけもしない。言うなれば机上の空論、遂行の意思を伴わない漠然とした妄想。そして自己満足。好ましく思う教室ですら、結局は鬼の支配下でしかあり得ない。そういう、「異議」への批判的意図が、隠されている可能性は十分にある。

⑥「祖父に乗り込む」

病室から出ることのできない主人公を、学校へ連れて行くために、「祖父」は肉体を改造し、主人公の操り人形となったのだった。「祖父は私で私は祖父」。軽やかな文体で巧みに描かれる学校生活は、主人公と祖父を取り巻く異様な状況を見事に包んで、青春の、「七色の」美しさを醸し出す。

この作品を読んで感じたのは、圧倒的な完成度の高さだった。文章そのものの美しさはもちろんのこと、冒頭の数段落や、中盤、タマキとの出会いの直後に登場する「それが放課後のお茶の誘いだなんて私にわかるわけがないだろう」という締めくくり。そして全体の巧みな構成に目を見張る。

また、「乗り込んでみれば、祖父は私で私は祖父だと光も認める」で始まり、光とは何かで終わる終盤と、形式的にも美しさが見出せた。「人間=光」であり、主人公と祖父は本来別個にしか存在できない定めであるが、「私=祖父」となって、一つの「光」となった時、あるいは「ひとつの光に照らされている」時、両者は青春に輝ける。

先日話題を呼んだ、伴名練「なめらかな世界と、その敵」という本がある。その表題作、あるいは最後に収録されている「ひかりより速く、ゆるやかに」を連想させる作風だった。

⑦「壊れた用務員はシリコン野郎が爆発する夢を見る」

「こと座α星、ベガの超新星爆発により、地球上の生命の約80%は絶滅した」未来の学校。有害となった外気に触れないため、教室そのものが授業に応じて(空を飛び!)移動する。人材不足にはアンドロイドや教師役の「疑似有機駆動体」が対応し、「生徒」は指示に従って、「ミジンコの生体」の観察を始める……。古き良きジュブナイルSFを思わせる導入から、「ですます」調で語られる、用務員アンドロイド視点の物語。ジュブナイル、と形容したように、深刻な世界設定はあくまで設定、主人公はアンドロイドらしからぬ希望を思ったり、はたまた冗談のような思いつきを実行していく。しかしそれは、徹底されたミスリードだった!

結末に息を飲み、振り返ってみると、確かに伏線は張られている。「夢を見」ていること、アンドロイドが生徒たちを「あの人たち」と表現し、「稀に犬や猫と間違えること」。「疑似有機駆動体が固体を保っていられる時間も短くなって」いること。しかしそれらへの些細な疑念——「深層」——は、アンドロイドによるとぼけた思いつき——いわば「分厚い表層」——によって、すぐさまかき消されてしまうだろう。その状況は、「夢」を見ているのだと表現できる。読者は、主人公と同じ風景を見ているのである。

ミスリードが、徹底的に行われているがゆえに、結末の驚愕は大きく私を揺れ動かした。ジュブナイルSFの皮を被り、最後にはブラックな正体を表すという、とんでもない詐欺師である。

⑧「次の教室まで何マイル?」

学生の中には、気づいている人もいるだろう。「どうも我々は、人間ではないらしい」。「学校というのは、社会から隔絶された、随分特殊な環境らしい」。その通り。作者は本作を書くにあたって、その光景を露わにした。代わりに、世界を狂わせた。

キノコに浸食された世界で、主人公らはグランドツアー式の教育を受ける。「不思議」としか言いようのない風景には、どんな意図があるのだろう。学校と動物園を同列に扱っているのだろうか。だとすれば、それは確かに、本質的な描写かもしれない。

「バターで焼いたエノキダケをホタテと言い張る前に正気を取りもどしていれば、こんな世界にはならなかった」。「まともな哺乳類で生き残ったのはゾウくらいだ。ヒトとアライグマはまともじゃない」。読み進めていくうちに、とぼけた世界観に惑わされ、読者は目的地を見失う。「一体、何が書かれているんだ?」同時に主人公たちもまた、校長センセイの死(?)によって、目的地を見失う。しかし読者も主人公も、今まで通りに読み続け、授業を受け続けるほか道はない。「全体、私はどう書けば?」不思議な小説を前にして、私もこうして書き続けている。

ただ一つ確かなのは、ここに描かれているのが「学校」の本質であるということだろう。

⑨「リモート」

指先以外を動かすことのできないサトルは、ロボットを遠隔操作し授業に参加。物語はクラスメイトの手紙の形式で紡がれていく。

まず目を引くのは、「心」と「体」の対立だ。「肉体と精神、どちらが優れていると思う?」サトルは主人公に問いかける。「精神かな、と答えると、君は『確かにそれが一般的だろう』と、画面の奥で頷いて見せた」。しかしそれは本当だろうか? この懐疑を基礎として、作者は肉体が持つ重要性に焦点を当てた。

キリスト教から来る心身二元論は、我々の価値基準に浸透している。「人間に邪心を起こさせ、堕落をもたらす肉体は『悪』なのです。だから、肉体が滅びて魂が浄化されて、人は救済される、そこでは肉体が徹底的に軽蔑されていたわけです」(西谷修『現代思想の立場から』)。しかし我々人間は、精神の実在を確信できない。それは目に見えないものだからだ。ではどうなるか。「精神」こそが重要だと考えつつも、目に見える「肉体」を中心とした価値判断をせざるを得ないのではあるまいか。少なくとも、システムとしての社会はそうする以外に道はない。結果として、「物理的存在が常に一義的になる」世界が完成する。肉体がなければ、その人間は存在を世界に示せない。

だから肉体は、あまりに強く人を縛る。例えばカオリの葛藤であり、肉体の所属の重要さであり、あるいはサトルの真実である。肉体が、精神よりも上位にあるなら。例えサトルが既に死んでいたにせよ、ロボットがあれば彼の名は、誰かの記憶に残せるだろう。もっと言うなら、それが動作している間、「サトルは生きている」とさえ言えるのである!

今まで読んだ中で、最もストレートに、最も普遍的な主題を書いた一作だった。

⑩「よーほるの」

この感想文を読んでいるあなたは、一体何者なのだろう。会社員かもしれないし、学生かもしれない。ミュージシャンかもしれないし、どこかの社長さんである可能性だってなくはない。プロの小説家であったら泣いて喜ぶところである。

  ※

さて。本作における学校は、作品世界の全てと言っても過言ではない。少なくとも主人公にとってはそうだろう。学校から下校した途端、生徒は例外なく消滅し、翌朝学校のすぐ前で、再生成され登校する。校門を出ると、生徒は存在を失うのである。物語は、そんな学校から「下校したくない」と考える少女を主人公に展開された。

序盤から終盤近くまで描かれるのは、学校における日常である。授業を受け、雑談をする平凡な風景。面白いのは、主人公の視点で描かれる人物で、個性、人格と呼べるものを持っているのがただ一人であるということだ。そんなクラスメイト(主人公の主観からした唯一の個性的他者と言える)「にゆちゃん」を、彼女は親しく思っている。

「おはよう、にゆちゃん」
 今日も会えましたね。

冒頭に引用された「よーほるのむらめぎむまのくがみちぬくもやをるやにぺかみむるかも」という短歌の内容は、朝、一人で登校してくる「にゆちゃん」との出会いを象徴しているに違いない。この重ね合わせは本作のストーリーにおいては重要な位置を占めている。そして和歌の主人公が「清い王」という、社会的高位にいることが、作品の読解において注目すべき点だろう。

作品内で、学校は、非常に強い力を持っている。生徒を「生徒」という役割の中に束縛し、支配していると言っても過言ではない。だから、生徒は下校して、学校外に出た瞬間、「生徒」というアイデンティティを喪失し——そうだ、これはアイデンティティだ——、存在を保つことが許されない。「生徒」は純粋に「生徒」でしかあり得ないのだ。下校とは、一時的なアイデンティティの喪失に他ならない。

冒頭で私はあなたに問いかけた。あなたは答えを持っている。社長かもしれないし、「清い王」かもわからない。共通しているのは、時折その与えられた「役割」から、——社会的地位が高ければ高いほど——解放されたいと望む(かもしれない)ことだ。身分証を破り捨て、あてのない旅に出たら……いささか古臭い妄想だが、夢見たことのある人は一定数いるのではないか。そんな、自己の役割——あるいは責任、義務、そういった束縛——からの脱却を望む一方で、多くの人は実行しない。旅に出ない。それは、アイデンティティの喪失を、恐れてもいるからだ。

短歌に詠まれている「清い王」も、同じ思いだったのではないかと私は思う。王という役割から解放されたく、しかし一方で完全な解放を恐れている。結果、親しい友人とのひとときの中、一時的に役割を忘れる、一時的に解放されるという折衷案を選択した。

主人公もやはり同様である。彼女は自己に与えられた「生徒」という役割が、奪われることを強く恐れて(下校を拒み)、同時に友人とのひと時に、一時的な解放、安心、忘却、そういった何かを希求する。

そういう物語のように、私は思った。

⑪「いつかあの夏へ」

生物学のグループ学習で、主人公らは過去の時代へと遡る。何らかの理由で秘匿された情報が、物語の進行と共に明らかになっていく過程は滑らかだった。ホタルという、現在の私たちにとって身近な存在を軸にして、破滅へと向かう時の流れを俯瞰する。

また、ホタルが象徴する人間の末路は、思わぬバッドエンドを示唆してもいる。ゲンジボタル(旧人類)は滅び去り、トウキョウボタル(新人類)が全盛を迎える。「トウキョウボタルが滅んだのは、世界が自然に還ったからよ。人工の生命体は他の種よりも長く生き、そして新しい世界に耐えられなかった」。

周囲の環境に適応することは、生き残る上で重要だ。だから、彼女は、主人公らに「閲覧規制の情報」を見せた。「いいの。君たちが好んで、学んで、成長するたびに知識の扉は開かれる。そしていつの日かAの階層に至るでしょう。それまでは記憶の底に眠っていても、この経験は君たちの心に地層のように刻まれている」。そうして主人公は、生物学の授業に出席するようになった。変化した。

人間が、自らの意思で環境に適応しようとするときに、この世界では二通りの方法が考えられる。一つは人間の改良であり、二つ目は知識のアップデートだ。著者は後者の重要性を強調している。

ただし、この作品には問題もあった。登場人物の扱いに未熟さが見られる。アキーラ、ジョアン、シュン、リンダ(主人公)のうち、特にシュンの役割が薄すぎる。また「私たちの多くは多様な動物や植物と融合した肉体を持って生まれてくる」という設定も、以前にそれらしい描写が(アキーラ以外に)ないため、納得しづらい。物語る力は、他の作品と比べても高い水準にある。今後は、論理的に語る力を鍛えてほしい。

★総評

私は、今回以下の点に注目していた。

1、物語の面白さ
2、深い思考

全てが揃っている作品はそうそうない。物語としての完成度が高くとも、テーマに深みがなかったり、読み込むことのできた作品でも、物語としての面白さが少ないことは当然ある。評価の上で、好みは大いに反映されるだろう。それを踏まえて、あくまで総合的に判断する(一番困るのは、片方の面白さに全力で挑んだ作品である)。

今回の作品群で、1番に欠ける(つまらなくはないが、微妙なもの)は思いの外多かった。字数の関係もあるだろう。短い中で読者に十分な満足感を与えるのは並大抵のことではない。ここで、一つの実力が試される。ここでは便宜上文学性と呼ぶが、私が多く読み込んでいた構造的な部分ではなく、ストーリーによって読者の心理に訴えかける力が、候補作品には少なかった。

「実は、サトルが怒ってくれたあの日、もうあの日には、手術の日程が決まっていたの。だから、嬉しい気持ちもあったけど、なんだか複雑だった。私はどっち側の人間なんだろうって」

「リモート」などは、最も文学性に富んだ作品である。

テーマを構造的に示すことは、私も普段の創作で多用する。しかしながら、そういった点に注目して見えてくる前に、物語としての強み——情に訴える力——というのは、表層に「物語性」を敷き詰める場合、極めて重視すべきであると考えている(無論、表層に思考を並べる円城塔のような作品では違う)。

そういう意味で、候補作の多くは、「悪くはない」という評価に留まっていた。

何が言いたいかというと、つまり、次回は私が冠取るぞ、ということである。

この記事が参加している募集

読書感想文

いただいたサポートは書籍購入費に使わせていただきます。